2010-01-01から1年間の記事一覧

コップの中の嵐

長瀬隆からの返信を一ヶ月待っているが、来ないので、この文章を書く。ドストエフスキーに関心のない人にはつまらないコップの中の嵐だろう。しかし、ジラールのいう模倣の欲望を明らかにしている話だと思うので、ドストエフスキーやジラールに興味のある人…

蟻の兵隊

ブログ「連絡船」の木下和郎さんに教えてもらったドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』をようやく見ることができた。その映画に登場する元日本兵奥村和一さんへのインタビューを収めた『私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵 』(岩波ジュニア新書)も読…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(10)

外国人にイソップ言語は分からない すでに述べたように(「亀山郁夫とイソップ言語」)、スターリン体制下の「二枚舌(ないしは面従腹背)(двурушничество)」(亀山郁夫、『磔のロシア──スターリンと芸術家たち』、p.59)と、帝政ロシアで使われた「イソッ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)

フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない これまでジラールによるフロイト批判を紹介してきたが、ジラールのフロイト批判にも拘わらず、フロイト理論やフロイト理論から派生したラカン理論を信奉する人は多い。そんなことになっているのは、フロ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(8)

亀山はなぜジラール理論を使ったのか さて、これまでの批判によって最初の約束を果たすことができたと思う。この批判の第一回目で私は次のように述べた。 先に引用した亀山の序文に明らかなように、亀山はこれからフロイトの「父殺し」の理論、つまり、エデ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(7)

すべては模倣の欲望から始まる 前回の最後に紹介したジラール理論のお粗末な「要約」のあと、亀山は次のようにいう。 しかし、じつは私がここに見るのも、シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波です。分身のモチーフが、ドイツ・ロマン主義の作家ホ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)

分身幻覚について これまで述べてきたことからも分かるように、亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論は常軌を逸したものだ。これを放置しておくのはドストエフスキー研究者としてあまりにも無責任なので、私は木下豊房と連名で日本ロシア…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(5)

自分の物は自分の物、他人の物も自分の物 これまで述べてきたことから、亀山が自分のドストエフスキー論の「出発点」にしているフロイトの「父殺し」のシナリオが、ドストエフスキー論では成り立たないことが明らかになった。それにも拘わらず、亀山は『ドス…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(4)

使嗾もない 前回、亀山はジラールのいう「模倣の欲望」=「父親殺し」という考えが理解できないまま『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書いていると述べた。このため、亀山は自分の出鱈目なジラール理解を『ドストエフスキー 父殺しの文学』で吹聴し続けて…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(3)

亀山のドストエフスキー論における根本的な矛盾 前回述べたように、ジラールは、ドストエフスキーによる模倣の欲望の発見によって初めて、フロイトのエディプス・コンプレックスの概念、そして、その概念から派生した『トーテムとタブー』の「父親殺し」のシ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(2)

エディプス・コンプレックスなどない 亀山郁夫の文章の特徴は、つかみどころがないことだ。それは亀山が適当な思いつきに嘘をまぶしながら、連想ゲームのように次から次へと妄想を展開してゆくからだ。このため、読者が「変だな」と思っても、もう話題は別の…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(1) 

はじめに 亀山郁夫は『ドストエフスキー 父殺しの文学』(全二巻、日本放送出版協会、2004)の序文で次のようにいう。 本書は、ドストエフスキー文学における最大の謎とされる「父殺し」の主題を扱っている。しかし「父殺し」における「父」とは、作家の父ミ…

ゼロ年代の50冊 

朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」というシリーズで亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を扱うというので、投稿した。 このシリーズでは、編集者が大岡越前みたいに最後にお裁きを下されるきまりになっているらしい。まず大岡様がご自分の考えに合う投稿を並べ、最後に…

あなたはなぜ這っているのか、 こんな日に。 全身をまるでアコーディオンのように、 ふくらませながら。 なるほど雨は滝のように降りそそいでいる、 あなたのそのあわてふためいた背中に。 あなたは固いアスファルトにとまどっているのか。 わたしにはあなた…

亀山郁夫とイソップ言語

「亀山郁夫の傲慢」で明らかにしたように、亀山は私のいう「自尊心の病」に憑かれている。また、「続・自尊心の病」で述べたように、自らの自尊心の病に気づくことができない者は『地下室の手記』以降のドストエフスキーの作品を理解することができない。 な…

亀山郁夫の傲慢

亀山郁夫の『磔のロシア──スターリンと芸術家たち』(岩波書店、2002)も妄想のかたまりと言うべき本だが、それは同時に不愉快きわまりない本でもある。なぜ不愉快なのかといえば、それは亀山がこのスターリンによる陰惨な悲劇をスラップスティック(ドタバ…

プロットの穴と尻の穴 

ドストエフスキーの読者には自明の事柄だが、ドストエフスキーの作品のプロット(諸事実の因果関係)には、無数の「穴」が開いている。「穴」とはもちろん比喩的な言い方で、諸事実の因果関係がしかとは確定できないような事態を、私は「穴」と呼ぶ。この穴…

蜷川譲の疑問

『敗戦直後の祝祭日 回想の松尾隆』(蜷川譲、藤原書店、1998)については「ドストエフスキー研究者 松尾隆の評伝」で紹介した。その本の著者蜷川譲は長瀬隆に対して次のように述べている。このブログでは傍点を打てないので、蜷川による傍点部は太字にする…

映画の少女に恋をした? 

背後でカミさんの悲鳴が聞こえたので、何ごとかと振り向くと、あわてて新聞を隠した。が、観念して、それを私に差し出した。 またも朝日新聞(2010/5/20/夕刊)の詐欺師亀山への提灯記事(映画の少女に恋をした.jpg )。 朝日もずいぶんいいかげんな記事を書…

ドストエフスキー研究者 松尾隆の評伝

私が最近繰り返し読んでいる評伝について述べておこう。 ひとつは『パリに死す 評伝・椎名其二』(蜷川譲、藤原書店、1996)で、これは私が定年になると大学図書館に戻さなければならない本なので、最近未練がましく読み返している。買えばいいのだが、引っ…

ロシア語の語順 

ロシア語を知らない人には、亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』の或る重要な一節を、「ロシア語は、基本的に語順は自由」と断言しながら論じていることに、なぜ木下豊房が怒り狂っているのか分からないだろう。しかし、それは怒り狂うのが当然なのであり、5…

「リアリティ」とは何か(2) 

すでに述べたように、拙論「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について」は補遺も合わせると9回連載した。といっても、各回ごとに内容が完結するように書いたので、「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」(ゴーゴリとワ…

國松竜次ギターリサイタル 

カミさんと「國松竜次ギターリサイタル2010──ORIGINAL & ARRANGEMENT」(午後2時ー4時半:学園前「アートサロン空」)。 【演奏曲目】 1)パガニーニの主題による狂詩曲(ラフマニノフ、國松竜次編曲) 2)3つのスペイン民謡(ファリャ、國松竜次編…

「リアリティ」とは何か(1) 

またもや同じ文章を引用する。5月3日のブログの冒頭で、私は次のように書いた。 『ステパンチコヴォ村とその住人』を書いていた頃、ドストエフスキーは自尊心の病というものに強い関心をもっていた。しかし、自分がその病に憑かれていることに気づいていた…

続・自尊心の病

昨日(5月3日)のブログ「自尊心の病」で、私は次のように書いた。 『ステパンチコヴォ村とその住人』を書いていた頃、ドストエフスキーは自尊心の病というものに強い関心をもっていた。しかし、自分がその病に憑かれていることに気づいていたか、というこ…

自尊心の病

「自尊心の病」というのは、私が授業や論文でドストエフスキーの思想を説明するときもう三十年近く使っている言葉で、とても重要な言葉だと思っている。「自尊心の病」とは何か。それは、自分の「自尊心」あるいは「肥大した自尊心」に気づかないということ…

追補・大岡昇平とドストエフスキー

福井勝也の「大岡昇平とドストエフスキー──『野火』を中心に」(『ドストエーフスキイ広場 No.19』)を読んでやりきれない気持になったことについては先のブログ(「大岡昇平とドストエフスキー」)で述べた。しかし、どうも言い足りないので、私の考えをもう…

大岡昇平とドストエフスキー

新しい『ドストエーフスキイ広場 No.19』が送られてきたので、見ると、巻頭に福井勝也の「大岡昇平とドストエフスキー──『野火』を中心に」という論文が載っている。巻頭に掲げられるということは同人諸氏から高く評価された論文ということだろうか。しかし…

ドストエフスキー占い 

ドストエスキーやバッハは神が創造したものを「保存」しただけだ(ドストエフスキーの「創造」)というようなことを書くと、「萩原もとうとう神がかりになったか」と呆れる人が出てくるかもしれないので、ちょっとひとこと。 バッハが神の創造したものを「保…

ドストエフスキーの「創造」

ドストエフスキーの作品は、ドストエフスキーが書いたものではない。それはバッハの作品がバッハの書いたものではないのと同じだ。ドストエフスキーやバッハは神が創造したものを「保存」しただけだ。シモーヌ・ヴェイユは次のようにいう。 創造することの不…