亀山郁夫の傲慢

 亀山郁夫の『磔のロシア──スターリンと芸術家たち』(岩波書店、2002)も妄想のかたまりと言うべき本だが、それは同時に不愉快きわまりない本でもある。なぜ不愉快なのかといえば、それは亀山がこのスターリンによる陰惨な悲劇をスラップスティック(ドタバタ喜劇)として楽しんでいるからだ。
 たとえば亀山はゴーリキーの死をめぐって、主にヴャチェスラフ・イワーノフの論文(「スターリンはなぜゴーリキーを殺したのか」など)をつまみ食いしながら再構成した論文の末尾でこんな風にいう。

 では、これまで述べてきたことのまとめとして最後に二点だけ書き添えておこう。
 一、巨大な全体主義権力が自らの保身のために見せる闘い、不信という名の恐ろしい病いについて。全体主義に対するわれわれの関心の一つが、不条理の劇としての空前のグロテスク性、面白さにあることは否定できない。一九三八年三月の右派トロツキスト・ブロックに対する裁判を例にあげよう。この裁判では晩年のゴーリキーにとって最大の盟友ともいえるブハーリンに対して、ゴーリキー殺害の嫌疑がかけられた。権力が仕組んだこの見世物裁判は、ブハーリンという一人の理想主義者が命がけでそれを演じるには、あまりにも悲惨で拙劣なスラップスティックの様相を帯びている。そこでは、権力と人間を秤にかける社会の規準そのものが、根底から崩れ去っているのである。(p.180)

 「権力と人間を秤にかける」のが「社会の規準」なのだろうか。そんなことはないだろう。しかし、それは亀山の「病」とも言うべき妄想癖だとして了解するにしても、先に引用した亀山の発言全体を妄想だとして笑いとばすわけにはゆかない。
 たとえば、亀山の「全体主義に対するわれわれの関心の一つが、不条理の劇としての空前のグロテスク性、面白さにあることは否定できない。」という発言は明らかに常軌を逸している。亀山はスターリン全体主義をまるで不条理劇を見るみたいに楽しんでいる。なぜ亀山はこんなに傲慢なのか。この発言だけで、亀山の発言すべてが無意味なものになる。それほどこの発言は狂気に満ちたものだ。この狂気の延長上に亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説がある。
 亀山とは旧知の仲だが、こんなに傲慢な男だったのか。私の思い違いではないのか。長いあいだ、私はそう自問自答してきた。しかし、木下和郎のブログ「連絡船」に掲載されていた「人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第9回2008年2月15日)」の議事録を読んで、それが思い違いではないことを再確認した。
 亀山はその委員会でこう述べている。少し長くなるが引用しよう。

 ・・・私が学長になるときに、亀山のようなナルシストで、文学といっても、結局は自分のことばかり書いている──自分のことをナルシストと思ったことは一度もないんですが、ああいう男が学長などやったら大学がめちゃくちゃになるという怪文書みたいなものも回ったわけですね。
 しかし、実際、学長になるまでに2年間、私は学長特別補佐というのをやって、じっと傍らから見続けてきたんです。見続ける過程の中でじつは1冊の本を書いたんですね。それが『大審問官スターリン』という本で、スターリン時代の検閲権力と創造的知識人の戦いのドラマにスターリンその人の伝記をつなぎあわせたものなんですが、このスターリンの伝記の部分は、ある意味で普通の人間が権力の頂点に上りつめるまでのプロセスを描いていったわけです。じつはこの本を書きながら、どうやってスターリン時代をイメージしていたか、ということなんですね。現場的想像力をどうやって自分なりに養ったか、というと、じつは、スターリンを前学長の池端雪浦先生に当てはめ、二重写しにしながら、執筆を進めていったんです。権力とは何か、権力者って何だろうとずうっと考えながら、学長特別補佐をつとめていました。池端先生の名誉のために言うなら、池端先生は、ものすごく緻密にものを考える、すばらしいヒューマニストでした。しかし問題は、権力そのものの意味、権力機構そのもののメカニズムを知ることにあったのです。役員会といって、私は学長補佐ですから発言権はゼロなんですが、ずうっと役員たちの発言を見守っていたんですね。そうすると、役員会が、なぜかスターリン時代の政治局に見えてくるわけですね。これは、おそらく権力機構というメカニズムに普遍的な何かがあるのだと感じました。そしてこの本のタイトルに「大審問官」とつけた理由というのは、ドストエフスキーのまさに『カラマーゾフの兄弟』です。とくに第二部の「大審問官」のテクストとスターリン時代と重ね、なおかつ外語大の大学執行部の意思決定プロセスなどを傍から観察していたわけです。そして、実際に学長選に出るとき、自分に学長職はつとまるという確信をもって臨んだわけです。その確信とは何かというと、自分は人間を知っている、人間がわかっているという確信です。傲慢のそしりを受けるかもしれませんが、そういう確信でした。人間同士がなんらかのコンフリクトを起こしたときでも、絶対解決できるという、そのコンフリクトを解消する言葉を自分は持っているという確信が生まれてきたんですね。

 誰が怪文書を書いたのかは知らないが、怪文書の主の判断は正確なものだ。というのも、ここで亀山はその怪文書の判断が正確なものであることを自ら証明しているからだ。亀山はこういう、「そして、実際に学長選に出るとき、自分に学長職はつとまるという確信をもって臨んだわけです。その確信とは何かというと、自分は人間を知っている、人間がわかっているという確信です。傲慢のそしりを受けるかもしれませんが、そういう確信でした。」
 亀山の言うとおり、それは傲慢だ。亀山は自分が神になったつもりでいるのだ。いや、それは神ではなく、悪魔だろう。神の座を奪い取った悪魔だ。そうでなければ、スターリンによる陰惨な悲劇をコメディと見ることもできない。この傲慢さがそのまま亀山のドストエフスキー論と『カラマーゾフの兄弟』の翻訳にもちこまれる。