映画の少女に恋をした? 

 背後でカミさんの悲鳴が聞こえたので、何ごとかと振り向くと、あわてて新聞を隠した。が、観念して、それを私に差し出した。
 またも朝日新聞(2010/5/20/夕刊)の詐欺師亀山への提灯記事映画の少女に恋をした.jpg 直)。
 朝日もずいぶんいいかげんな記事を書くもんだと呆れた。この記事には変な箇所がいくつもある。
 中学生の亀山が『罪と罰』の殺人の場面を読んで、恐ろしさのあまり「布団の中でふるえた」とある。中学生に『罪と罰』が読めるとは思わない。中学生には『罪と罰』を読むための経験が絶対的に不足しているからだ。このブログの「リアリティとは何か(2)」では、拙論「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」(ゴーゴリとワイルド(5).pdf 直)9頁目の(I)図についてこう述べた。

 (I)図では、テキストの集合全体を比喩的に意味する円(A+B+・・・)と、読者あるいは作者における二つの潜在的要素、つまり文学的教養体験Xと人生的経験Yを合わせたものを比喩的に意味する円(X+Y)が離れている。
 これはテキストと読者の潜在的要素が何のかかわりももたないケースで、読んでも無意味なケースだ。たとえば、中学生が『罪と罰』を読む場合など。『罪と罰』を読むためには少なくとも成人が味わうさまざまな人生的経験が必要なので、『罪と罰』のテキストの大半が十五歳以下の者では(I)のケースになる。亀山郁夫のように『罪と罰』を読んでじつに面白かったと述べる中学生がいるとすれば、そんな早熟な天才の出現に驚くと同時に、眉に唾をつけざるを得ない。

 従って、亀山が嘘をついているのは明らかなのだが、関根記者はこの嘘に疑いをもたず、さらに、亀山が「この感覚、本のせいだけなのだろうか?」と思った、と書く。そして亀山が高校生になり、父親殺しが描かれている『カラマーゾフの兄弟』を読み、この「恐怖の正体は、これだ。ああ、僕は父を憎み、消えてしまえばいいと望んでいるのだ。」と思った、と書く。
 この亀山物語のプロット(因果関係)が分からない。殺人事件を読めば、そりゃ怖いだろう。しかし、それがなぜ父親殺しと結びつくのか。誰だって思春期の頃、父親を憎んで消えてくれればいいのに、と思ったことは一度や二度ぐらいあるだろう。そのことと、『罪と罰』の殺人の場面がなぜ結びつくのか。亀山も関根記者も論理能力ゼロか。新聞記事ではなく、妄想を書いているのか。
 もうひとつ。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』が「誤訳だらけだ」という批判に対して、亀山は「細かな文法的なものを超えて、自然に読めるテキストをつくりたかった」と述べる。
 変なことをいう。原訳や江川訳が「細かな文法」にこだわった訳だろうか。また、彼らの訳が「自然に読める訳」ではないというのか。これも意味不明だ。
 要するに亀山は、原文とはかけ離れた、読みやすさだけを追求した「超訳」を目指したと言いたいのだろう。「自然に読めるテキスト」とは「超訳」のことだろう。つまり、あなたがた、もう誤訳指摘をしても無駄ですよ、これは「超訳」なので、そもそも正確に訳すつもりなぞ、まったくなかったのですからね、ということだろう。
 しかし、拙稿「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 直」で言ってきたように、ドストエフスキーポリフォニー小説の面白さは、穴の開いたプロットを埋めてゆくところにある。その穴を埋めるためには、その穴以外のプロットが正確に訳されていなければならない。亀山訳のような「超訳」では、そのプロットの穴は正確に訳出されない。要するに、亀山は自分の『カラマーゾフの兄弟』訳は「にせもの」だと白状しているのだろう。