ゼロ年代の50冊 

 朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」というシリーズで亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を扱うというので、投稿した。
 このシリーズでは、編集者が大岡越前みたいに最後にお裁きを下されるきまりになっているらしい。まず大岡様がご自分の考えに合う投稿を並べ、最後に、自説だけでは困るので、ピリッとわさびを利かせるため、自説に批判的な投稿もひとつ(ひとつだけ)紹介し、しかし、そんな批判は無視しながら(「指摘の正否はおくとして」などと述べながら)、最後に自説に合う投稿を紹介してオワリ、というきまりになっているらしい。この前の柄谷行人のときもそうだった。
 誰が読んでも、この欄でいちばんエライのは編集者だと思うだろう。何のために投稿を募集するのだろう。投稿など募集せず、自分でチョウチン記事を書けばいいだろう。読者を利用するな。
 朝日新聞というのは他のジャンルではまともな記事も多いのに、読書欄の近藤康太郎の書く記事には一貫して何の知性も感じられない。近藤というのは、社交的なだけが取り柄の馬鹿なのだろう。
 朝日新聞の中にもたくさんタコツボがあって、そのタコツボ同士で批判しあうことなどないのだろう。朝日も終わりだ。
 その近藤の書いた記事(「[file:yumetiyo:ゼロ年代の50冊.pdf]」)と、私の次の投稿原稿を読み比べてほしい。私のいちばん言いたかったメディア批判が見事に無視されているのが分かるだろう。朝日新聞、いや、近藤康太郎がいかに読者を馬鹿にしているのかが分かる。

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超訳」にすぎない亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーになったのは、メディア(朝日新聞毎日新聞、NHK、集英社など)の強力な後押しがあったためだ。このことは、たとえば太平洋戦争の頃と同様、今も、メディアがスクラムを組んで大衆を操作すれば、大衆はコロッと欺されるという事実を私たちに示している。戦慄すべきことだ。それに、メディアの宣伝文句に踊らされ、その超訳をつかまされた大衆の何割が全巻を読みとおしただろう。このような疑問を抱くのは、その超訳は読者による緻密な読みを拒否するものでもあるからだ。ドストエフスキーの作品だけではなく、文学作品は筋を追うだけでは面白くない。緻密に読んで初めてその面白さが分かる。従って、文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない。超訳カラマーゾフの兄弟』はこの二条件のいずれも満たしていない。