『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)

フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない
 これまでジラールによるフロイト批判を紹介してきたが、ジラールフロイト批判にも拘わらず、フロイト理論やフロイト理論から派生したラカン理論を信奉する人は多い。そんなことになっているのは、フロイト理論やラカン理論が精神医療に役立つ理論だからではないのか、と思う人がいるからだろう。
 それは間違いだ。私は医者ではないが、これまで多くの精神障害者と付き合ってきた経験から言えば、臨床の場でフロイト理論やラカン理論が治療に役立つ理論だと思ったことは一度もない。臨床の場で役に立つのは、そんな何の役にも立たない理論ではなく、患者を支える人々の無償の善意であり、治療者の適切な対応なのである。
 それでは精神分析は何のためにあるのか。このような問いに対して、たとえば、新宮一成田村公江は次のように答える。

 しかし、臨床に携わる人も人文社会系(フェミニズム社会学など:萩原)の知的関心から学ぶ人も、薄々わかっていながら見落としがちなことがある。それは、精神分析の実践や理論はそもそも何の役に立つのか、という問題である。臨床に携わる人にとってさえ、治療に役立つという目的から精神分析を学ぶのは、まずい入り方であろう。というのも、精神分析においては、そもそも治療とは何であるのかということが問われてくる。そして治療者の欲望が患者の欲望とともに問われてくるからだ。また、人文社会系の知的関心から学ぶ人にとっても、社会現象の評論に役立てようという目的から精神分析を学ぶのは、どちらかというと底の割れやすい入り方である。というのも、精神分析の一見カッコイイ用語を駆使することによって鮮やかに評論できたとしても、評論が「人間であることの苦しみ」を他人事として論じる限り、偽善的な上滑りに陥る危険があるし、かといって自分の事としてコミットしようとするならば、その時、評論する人の欲望が問われてくることになるからだ。精神分析の実践や理論によって蓄積されてきた知識は、こう言ってよければ、自分自身の欲望に目を向けるところまで人を引きずっていくのであり、それを使いこなして何かに役立てようという下心をはねつけるところがある。ここには、「人間であることの苦しみ」を背負う主体として考えることに立ち返るべし、という倫理的要求がある。そうした問いを含めて精神分析を考える営みを、ここでは「精神分析」に「学」の付いた「精神分析学」という言葉で表して、書名に掲げることにした。(『精神分析学を学ぶ人のために』、新宮一成、鈴木國文、小川豊昭編、世界思想社、2004、pp.4-5)

 新宮と田村はすでにジラールフロイト批判に答えているのだろうか。私の知る範囲では彼らは答えていないと思う。従って、彼らはジラールの批判に答えなければならない。しかし、それはそれとして、新宮と田村の言うとおりだと思う。つまり、新宮と田村が言うように、精神分析というものは哲学と同様、何かの役に立つために存在しているのではない。それは人間とは何かということを探求するために存在しているだけであり、それは「自分自身の欲望に目を向けるところまで人を引きずっていくのであり、それを使いこなして何かに役立てようという下心をはねつけるところがある」。
 なぜこのような新宮と田村の意見を正しいと思うのかといえば、それは精神分析の理論をそのまま現実に当てはめて分析するとすれば、それは必ず私のいう「物語の暴力」になるからだ。このことについてはすでに丸山真男の言葉を引用しながら少し述べた。再度引用しておこう。

 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方嚴密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある「断念」と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対する「いとおしみ」がそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。(丸山真男、『日本の思想』、岩波新書、1961、p.60)

 ここで丸山のいう理論とはもちろん「一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところ」から生まれる理論のことであり、その「複雑多様な現実」から遊離した理論のことではない。まして、別の現実から作り上げられた理論などではない。別の現実を「方法的に整序」して作り上げた理論、たとえば、臨床の場で作り上げた精神分析の理論を、それとはまったく異なった現実、たとえば、現実の社会や文学作品に適用することなぞ、丸山に言わせれば、到底許されることではない。適用すれば、それは残酷を通り越した滑稽な「物語の暴力」になるだろう。
 ところで、フロイトが「ドストエフスキーと父親殺し」という論文で行使しているのは、このような暴力なのである。なぜなら、フロイトは臨床の場で作り上げたエディプス・コンプレックスの概念とそこから派生した『トーテムとタブー』の父親殺しのシナリオを、その論文で、ドストエフスキーの人生と『カラマーゾフの兄弟』に当てはめているからだ。これに対して、ジラールの模倣の欲望の理論は、ジラールが自ら言明しているように、また丸山の言葉を借りて言えば、ドストエフスキーの作品という「複雑多様な現実」を「方法的に整序するところ」から生まれた理論なのである。もちろん、いずれも理論であるので、ドストエフスキーの人生や作品という現実に適用すると「物語の暴力」になる点で変わりはない。しかし、少なくともドストエフスキー論においては、別の現実から作り上げられたフロイトの理論がジラールのそれと比べて圧倒的に暴力的なのは明らかだろう。
 また、ジラールの批判をまつまでもなく、誰が考えても、「父親殺し」は『カラマーゾフの兄弟』のプロットのひとつにすぎず、そのプロットが『カラマーゾフの兄弟』全体を支配しているわけではない。フロイトドストエフスキー論で明らかになっているのは、フロイト自身のきわめて暴力的な、何としてもドストエフスキーの人生と『カラマーゾフの兄弟』を自分の理論によって整序したいという欲望にすぎないのである。
 亀山のドストエフスキー論(『ドストエフスキー 父殺しの文学』)も同様だ。亀山のあまりにも杜撰なドストエフスキー論をフロイトの杜撰ではないそれと並べることは不適切だが、いずれのドストエフスキー論も自分の欲望をそのドストエフスキー論によって明らかにしているという点では同じだ。
 では、亀山がそのドストエフスキー論で明らかにしている欲望とは何か。そのような欲望として、前回と同様、亀山をジラール理論へと導いた模倣の欲望──(1)作田啓一や私などがジラール理論を使ってドストエフスキー論を書いていたこと、(2)ジラール理論が亀山には「先端的な」理論に見えたこと──を挙げることができるだろう。
 さらに、これ以外に、これも亀山をジラール理論へと導いた亀山の「原風景」──フロイトのいう病理学的な「父親殺し」という原風景──が挙げられるかもしれない。もちろん、その原風景それ自体が欲望だというのではなく、その原風景を亀山にもたらした欲望のことを私は言っているのだ。つまり、推測にすぎないが、また、間違っていたら亀山に謝罪しなければならないが、その亀山の原風景さえもフロイトに対する亀山の模倣の欲望がもたらした幻覚ではないのか。言い換えると、亀山はフロイトの「父親殺し」の欲望を横取りし、自分のものにしたのではないのか。これが私の推測だ。私がそう思うようになったのは、「映画の少女に恋をした.jpg 直」という新聞記事を読んだからだ。
 この記事にあるように、亀山の兄と姉は亀山のいう父親像を事実とは異なるものとして否定している。このため、この記事は亀山のフロイトに対する模倣の欲望を明らかにしているだけのように思われる。つまり、亀山は(亀山の兄と姉によれば、郁夫に殺意を抱かれる特段の理由ももたない)父親に殺意を抱いていた、と述べることによって、フロイトの「父親殺し」の欲望を横取りしたことを明らかにしているのではないのか。つまり、亀山はフロイトを無理矢理真似たのではないのか。何のために無理矢理真似たのか。それは、もちろんフロイトという「権威」を利用して『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書くためだ。そうでなければ、次のような香具師が使うような大仰な言葉(「ドストエフスキー文学における最大の謎とされる「父殺し」の主題」、「オーストリア精神分析学者ジークムント・フロイト」というような言葉)を序文に書き連ねる必要はなかっただろう。

 本書は、ドストエフスキー文学における最大の謎とされる「父殺し」の主題を扱っている。しかし「父殺し」における「父」とは、作家の父ミハイル・ドストエフスキーを意味するにとどまらない。それどころか、絶大な皇帝権力のもとに生きるロシア知識人、いやロシア社会全体を包みこむ主題だったと述べても少しも過言ではない。議論の出発点になるのは、オーストリア精神分析学者ジークムント・フロイトが著した「ドストエフスキーと父殺し」だが、本書に託したねらいは、その紹介にも応用にもなく、むしろフロイトからどれほど自由に、そして遠くまで行けるか、つまり冒険できるかという点につきる。(亀山郁夫、『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、p.6)

 しかし、亀山のようにフロイトの理論をそのままドストエフスキーの人生と作品に当てはめるのは間違っている。なぜなら、繰り返すが、新宮と田村によれば、精神分析というものは哲学と同様、何かの役に立つために存在しているのではないからだ。フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない。