『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(7)

すべては模倣の欲望から始まる
 前回の最後に紹介したジラール理論のお粗末な「要約」のあと、亀山は次のようにいう。

 しかし、じつは私がここに見るのも、シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波です。分身のモチーフが、ドイツ・ロマン主義の作家ホフマンにその意匠を借りていることは事実であるにせよ、テクストの内部に隠されているリアリティの生々しさは、より原型的な神話に通じているように思えてなりません。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.93-94)

 ここで亀山のいう「より原型的な神話」とは創世記(旧約聖書)でのカインによる弟アベルの殺害のことだ。
 また、亀山が「じつは私がここに見る」という「ここ」とは、先のお粗末なジラール理論の「要約」、つまり、ジラールのいう分身幻覚のことだ。亀山はドストエフスキーが『分身』などで描いた分身幻覚を「シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波」だと言いたいのだ。
 この言葉によって、私たちは再び、亀山がジラールをまったく理解していないことを思い知らされる。なぜなら、ジラールにとって模倣の欲望とそこから生じる分身幻覚は人間にとってもっとも普遍的な現象、いや、模倣の欲望に限って言えば、猿のような人類に近い動物にとっても普遍的な現象なのである。
 従って、亀山の考えは、ジラールにとって荒唐無稽なものでしかない。つまり、『分身』の分身幻覚のモチーフをもたらしたのは『群盗』体験だった、つまり、ドストエフスキーが十歳のときモスクワで見た『群盗』が後年の分身幻覚のモチーフを生みだしたのだ、という亀山の仮説は、ジラールにとって赤面するほど愚かなものでしかない。繰り返すが、分身幻覚は人類にとって普遍的な現象なのだ。べつに『群盗』を見なくとも、誰もが分身幻覚に陥るのだ。
 しかし、その愚かな仮説を亀山は一貫して『ドストエフスキー 父殺しの文学』で唱え続ける。
 さらに愚かにも、亀山はこの「シラーの『群盗』という原体験」がドストエフスキーに「兄弟殺し」のモチーフをもたらしたのだという。

・・・分身とは、精神的ないし血縁的に一であったものが二つに割れた存在(ないし状態)を言います。ということは、源をたどれば、それら両者は兄弟の関係にあるということです。そして実際でもそうですが、この兄弟が、瓜二つである場合もあれば、そうでない場合もあるのです。
 そこで私はこんなふうに想像するのです。ドストエフスキーにとって分身のテーマとは、たんに文学上の手法としてあったわけではなく、そこにはシラーの『群盗』以来、彼のなかで強迫観念となり、妄執の色さえ帯びている敵対する兄弟という根源的なモチーフ、極言すれば兄弟殺しの動機があったのだと。『群盗』で提示された兄弟は、容貌、性格ともにかけ離れていますが、『分身』では、純粋にこのテーマがドストエフスキー自身の内面の問題に重ねあわされている、と。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.94-95)

 以上の亀山の考えを図式的に整理すれば次のようになるだろう。

ドストエフスキー少年の原体験:シラーの『群盗』における「敵対する兄弟という根源的なモチーフ」
→「兄弟殺し」のテーマ
→小説『分身』での分身幻覚

 しかし、亀山によれば、この「敵対する兄弟という根源的なモチーフ」を生みだしたのは「父殺し」のモチーフなのである。この批判の第一回目で引用した『ドストエフスキー 父殺しの文学』の序文から再び引用しておこう。

 だが、『カラマーゾフの兄弟』は、そうしたフロイト流の読みを超えた、はるかに重大な罪の刻印を帯びている。すなわち、父殺しの罪の意識に覆いかぶさるようにして彼を襲ったもうひとつの罪、敢えていうなら、『旧約聖書』のカインとアベルに、さらには『群盗』におけるカールとフランツになぞることのできる「兄弟殺し」の罪である。しかし、あらかじめ述べておきたいのは、この兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてあることである。なぜなら、大いなる統率者、支配者たる父親の死の後にくるのは、当然のことながら、母性を占有してきた父権をめぐる兄弟同士の争いだからである。(以下略)(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.36-37)

 フロイトの『トーテムとタブー』における父親殺しのシナリオは、彼のエディプス・コンプレックスの概念から派生するから、亀山の言葉を補って先の図式を書き換えると次のようになる。

エディプス・コンプレックス
→父殺し
→母性を占有してきた父権をめぐる兄弟同士の争い
ドストエフスキー少年の原体験:シラーの『群盗』における「敵対する兄弟という根源的なモチーフ」
→「兄弟殺し」のテーマ
→小説『分身』での分身幻覚

 しかし、この図式の出発点になるフロイトエディプス・コンプレックスは、すでに述べたようにジラールによって否定されている。従って、ジラールによれば、エディプス・コンプレックスの概念から派生する『トーテムとタブー』の父親殺しのシナリオも成立しない。ということは、上の図式によって書かれた亀山のドストエフスキー論は、ジラールによってすべて否定されることになる。
 また、小説『分身』での分身幻覚やシラーの『群盗』における「敵対する兄弟という根源的なモチーフ」も模倣の欲望から派生する普遍的な現象にすぎないので、ジラールが上の亀山の図式を書き換えるとすれば、次のようになるだろう。ジラールによれば、すべては模倣の欲望から始まる。

模倣の欲望
(以下順不同)
→父殺し
→敵対する兄弟
→兄弟殺し
→母性を占有してきた父権をめぐる兄弟同士の争い
エディプス・コンプレックス
→分身幻覚
→・・・

 言うまでもないことだが、「以下順不同」というのは、模倣の欲望以外はすべて模倣の欲望から直接発生する事態だということだ。亀山はこの図式を理解できない。だから、たとえば、次に批判するように、ジラールの「父親と息子は似ている」という言葉さえ理解できないのだ。
父親と息子は似ている?
 亀山はライバル関係に立った父親と息子について次のようにいう。

 抑圧者たる父──、ドストエフスキーはこの世に生を享けた瞬間から、現前する父によって「傷」を背負わされた存在でした。フロイトのいうエディプス・コンプレックスがこの作家にとってきわめて根強いものとしてあったことは否定しがたい事実です。しかし、ジラールが指摘するように、そもそも「父親と息子がライバル同士になるということは、つまり、両者がきわめて似ている」ということを意味しているのです*1。であるなら、自らのうちに父親を発見するという同一視の体験がどこかの段階でなくてはなりません。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(下)、p.171)

 ここでジラールが「父親と息子がライバル同士になるということは、つまり、両者がきわめて似ている」と述べているのは、模倣の欲望によって両者が分身幻覚に陥っていることを指しているのにすぎない。亀山が引用している鈴木訳をもう少し長く引用してみよう。ジラールは『カラマーゾフの兄弟』について次のようにいう。

 父親と息子がライバル同士になるということは、つまり、両者がきわめて似ているということである(織田訳:父親と息子のライバル関係は両者間の深い類似を意味している)。息子は、父親が欲するものを欲する。父親の自尊心は息子と真正面からぶつかり、それによって、息子の自尊心を強化する。父親殺しは、圧制者=父親に向けられた奴隷=息子の犯罪であり、したがって、何よりも地下的な悲劇として現れる。ある意味で父親と息子とは同一であるから、父親殺しは殺人であると同時に自殺でもある。この二つの犯罪は、その起源においては、同じものである(織田訳:この二つの犯罪はその起源にあっては、分化していないのだ)。これまでの小説の作中人物たちの殺人や自殺は、すべてこの根源的な恐怖の中に集約される(織田訳:これ以前に創造された主人公たちのあらゆる殺人および自殺はこの根本的な犯行に合流する)。これらすべての悪夢の源は作者自身なのである(織田訳:作家は自身のあらゆる悪夢の源に立っているのだ)。ルネ・ジラール、『ドストエフスキー──二重性から単一性へ』、鈴木晶訳、p.121)(『地下室の批評家』、織田年和訳、p.131)

 鈴木訳で意味不明になっている箇所を織田訳で補足した。お読みになれば分かるように、とくに引用の後半部は織田訳でないと意味が通じない。もっとも、鈴木訳でも、ここでジラールが病理学的な父子関係から生まれる分身幻覚のことを述べているということは分かるはずだ。ここでジラールは(前回亀山が鈴木訳から剽窃した)病理学的な分身幻覚の話を父子関係にあてはめているだけだ。再度その分身幻覚の話を織田訳から引用しよう。

・・・軽蔑する観察者、つまり〈私〉のなかの〈他者〉は絶えず〈私〉の外部の〈他者〉、勝ちほこるライバルに接近する。他方、すでに見たように、この勝ちほこるライバル、この私の外部の〈他者〉の欲望を私は模倣し、彼は私の欲望を模倣するのであるが、彼は絶えず〈私〉に接近してくる。意識の内部の分裂が強化されるにしたがって、〈私〉と〈他者〉との区別はあいまいになる。この二つの運動が互いに同一地点をめざして接近し、分身の「幻覚」が発生するのだ。意識に打ちこまれた楔(くさび)のように、障害はあらゆる内省の二つに分裂しようとする傾向を激化させる。この幻覚現象は地下室の生活を規定しているあらゆる主観的および客観的な分裂の帰結であり、総合なのである。(『地下室の批評家』、pp.79-80)

 要するに、息子が父親に対して模倣の欲望を抱き、分身幻覚に陥るとき、息子の「私」は「他者」である父親と区別のつかないものになる。これが『カラマーゾフの兄弟』で描かれている父子関係であり、このような父子関係を指してジラールは「父親と息子がライバル同士になるということは、つまり、両者がきわめて似ているということである(織田訳:父親と息子のライバル関係は両者間の深い類似を意味している)。」と言うのだ。
 しかし、驚くべきことに、亀山はそのジラールの分身幻覚についての話に続けて、「であるなら、自らのうちに父親を発見するという同一視の体験がどこかの段階でなくてはなりません。」という。
 え?どこかの段階?亀山は何のことを言っているのだ?私たちは混乱する。
 ジラールが言うような父子間に生じた分身幻覚では、好むと好まざるとにかかわらず、父子は似た存在になる。だから分身幻覚なのである。そのような事態を指してフロイトは「同一視」というのだが、ジラールはこのフロイトの「同一視」という概念を認めない。なぜなら、ジラールにとって、フロイトのいう「同一視」とはエディプス・コンプレックスの神話を支える概念のひとつにすぎないからだ。ジラールはこういう。

・・・けれどもフロイトは、なぜ事態がそんな風になってゆくのかの「理由」がわからない。彼はまさしく模倣という欲望の概念に到達できないが故に、その理由がわからないのである。フロイトは同一視の手本の中に、「欲望そのものの手本、従って、潜在的な障害」を、公然と認識することができないのである。(「 」は訳文では傍点)(ルネ・ジラール、『暴力と聖なるもの』、古田幸男訳、法政大学出版局、1982、p.288)

 要するに、ジラールによれば、フロイトは模倣の欲望(相手の所有しているものを横取りしたいという欲望)に気がつかないので、息子が父親を自分と同一視するとき、なぜその同一視にアンヴィバレントな感情(尊敬していると同時に恨むというような矛盾した感情のこと)が付随するのかが見抜けないのだ。
 ところが、亀山はこのフロイトの「同一視」という概念がこのようにジラールに批判されていることも知らず、フロイトエディプス・コンプレックスの概念とは無関係に、きわめて日常的な意味で「同一視」という言葉を使うのである。このため「どこかの段階」という言葉を亀山は使ったのだ。そのことを明らかにするため、先の引用文の前の亀山の言葉を引用しておこう。

では、彼(=ドストエフスキー:萩原)は、堕落した現実の父親を死ぬまで許そうとはしなかったのでしょうか。私はそうは思いません。許そうという気持ちもどこかにあったはずです。そもそも、子どもにとって父の死とはそのようなものであり、その瞬間に人は一度父を許すのです。であるなら、彼の父親像の基本は、十八歳の時点(ドストエフスキーの父親が殺された時点:萩原)で決定したと考えるべきであり、その後はひたすら父に投影された自分自身を対象として思索を重ねてきたにちがいありません。ドストエフスキーの悲劇は、抑圧者であり、サディストであり、支配者であった父に、彼自身が少しずつのぼりつめるプロセスを歩んでいたという点にあります。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(下)、pp.170-171)

 なぜ亀山にはこんな何の根拠もない妄想を並べることが可能なのか。気味が悪い。しかし、それはともかく、この文章のあと、亀山は先ほど引用した文章で、「であるなら、自らのうちに父親を発見するという同一視の体験がどこかの段階でなくてはなりません。」と述べたのだった。その言葉のあとに続けてこういう。

 ドストエフスキーが作家として決定的な変貌を遂げたのは、おそらくその瞬間、その同一性の発見の瞬間だったと思います。そしてその瞬間こそは、彼の小説における極限的な悪のシンボルであった父親像が大きく変化したときであったにちがいありません。そうした地点に立ち、彼の生涯を辿りなおすとき、彼の文学が劇的な深化をとげる『地下室の手記』を執筆する前後に、きわめて深刻な自己発見の時期が訪れたのではないかと思えるのです。その時、はじめて、父殺しのモチーフは、文学として自立した地位を勝ちえることができたのです。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(下)、p.171)

 ここも、なぜこんな何の根拠もないことを次々断定できるのか気味が悪いが、このような亀山によるドストエフスキーと父親の関係を整理して図示すると次のようになるだろう。

堕落した父親への嫌悪感
→父親の死によって父親を許す(しかし、嫌悪感は残る)
→自分と父親の同一視(自分が父親に似ていることを発見)
→自立した父殺しのモチーフの成立

 こういう風に亀山の考えを整理してみると、亀山のいう「同一視」とはフロイトエディプス・コンプレックスの概念を支えるために用いる「同一視」(あるいは「同一化」)のことではなく、いたって日常的な意味での「同一視」であることが分かる。だから、亀山のいう「どこかの段階」とは「人生のどこかの段階」なのだ。要するに、「おれも年をとって子供もでき、ようやく親父のことも分かるようになったな。ああ、おれはやっぱり親父に似ているなあ。」という風に思うような「人生のどこかの段階」なのだ。こんなことを言うために亀山はフロイトジラールを引用しているのか。あまりにも情けなくて、言葉も出ない。

*1:ジラールドストエフスキー──二重性から単一性へ』、鈴木晶訳、八三〜八五頁、一二一頁