蜷川譲の疑問

 『敗戦直後の祝祭日 回想の松尾隆』(蜷川譲、藤原書店、1998)については「ドストエフスキー研究者 松尾隆の評伝」で紹介した。その本の著者蜷川譲は長瀬隆に対して次のように述べている。このブログでは傍点を打てないので、蜷川による傍点部は太字にする。

 木寺黎二(松尾隆の筆名:萩原)に遺訳稿六百枚ほどの「ドストエフスキーの芸術」がある。それは未定稿のゆえに未発表であったが、実はペレヴェルゼフ原著ТВОРЧЕСТВО ДОСТОЕВСКОГОの訳稿であった。木寺の死後三十有余年、一九八九年十月、長瀬隆訳で、『ドストエフスキーの創造』(みすず書房)と題して出版された。その書のあとがきを見ると、以下の記述があった。
 「一九八六年十二月、教授に縁のあったかつての学生たちによって記念の集まりが持たれ、文集『松尾隆』(副題は「早稲田の疾風怒濤時代を生きた一教師」)(新制作社)が刊行された。その準備の過程で一連の未発表の文書が発見された。一つは小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』に関する依頼原稿であり、いま一つは、『ドストエフスキーの芸術』と題された六百枚弱の文書であり、前者の全文と後者の最初の一章が文集に収録・公表された。
 私が文書を入手したのは文集の発刊後であった。一年におよぶ調査と研究の後に、私が未読であったペレヴェルゼフの論文の翻訳に相違ないと確信するにいたり、新谷敬三郎早大露文科教授に連絡し、早大図書館から借り出していただき、二人でそうであることを確認したのである。これが本訳書の成立の契機である。」(傍点引用者)
 私はご遺族からその遺稿を松尾隆記念行事会に貸し出されていたことはお聞きしていた。そのあとがきを読んで、私は長瀬がその訳稿を持っていると思い、松尾夫人に連絡をとった。すると、松尾夫人から「庭の梅が満開ですが、まだまだ寒い日が続いて居ります。お元気で良いお仕事をなさって居られる事とおよろこび申し上げます。お手紙拝見いたしました。夫の遺稿の事ですが、私共では読んでいただく事に何の支障もございません。どうぞご覧になって下さい。末筆乍らご健康を心よりお祈りいたして居ります。九七年三月五日」という返事をもらった。私は長瀬にその旨を伝え、松尾の遺稿を見せてほしいと連絡した。長瀬との面会期日まで決めたが、長瀬からの一方的な面会キャンセルが突然電話で告げられ、今日に至るまで、彼との面会は実現していない。長瀬のこういった態度は、私にはどうしても承服しかねることである。この長瀬は、木寺没年時の弟子筋の早大生であるらしい。何事にも寛大であった木寺にしても、長瀬のこのような行為は納得できるものであろうか。(『敗戦直後の祝祭日 回想の松尾隆』、pp.236-237)

 誰が読んでも、蜷川と同様、長瀬隆の態度は不自然だと思うだろう。恩師の訳稿なら恩師の名前で出版するのが礼儀ではないのか。あるいは、それがあまりにも未完成のものであったとすれば、手直しした上で、少なくとも共訳という形で出版するのが礼儀ではないのか。
 いずれにせよ、長瀬隆の、蜷川譲に松尾隆の訳稿を見せないという態度が理解できない。見せると何か都合の悪いことでもあるのか。
 はっきり言おう。この蜷川譲の文章を読む限り、私だけではなく誰でも、長瀬隆が恩師の訳稿を盗みだし、自分の名前で出版したと思うだろう。従って、それが事実でないのなら、長瀬隆は蜷川譲を名誉毀損で訴えなければならない。一方、事実であるのなら、長瀬隆は犯罪者だ。