2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

作品全体が美を定義する 江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んでいていつも思うのは、なぜ彼らはこんなに変なところばかり問題にするのかということだった。この疑問に対する答は「「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」(「死産児はいちばん大事な…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 前回掲げた学生用配布資料「スタヴローギンと「広い心」」はあくまで私の講義ノートの一部であり、じっさいの講義ではそのノートに対して口頭で補足を行いながら講義をすすめる。前回掲げた配付資料に欠けているのは、なぜスタヴローギンが善悪の区…

スタヴローギンと「広い心」

次の文章はここ十年ぐらい私が『悪霊』の講義(市民講座も含めた講義)のとき受講生に配布している資料です。私の講義ノートからの抜粋にすぎませんが、講義では、この配付資料にそってもう少し詳しく喋ります。ここは『悪霊』の中でももっとも重要な箇所の…

「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

「ラスコーリニコフ=666」説が無意味である理由 芸術作品を受容するときに私たちが取るべき態度は、森有正の次の言葉に尽きている。 どこでだったか、今ではすっかり忘れてしまったが、どこかフランス以外のところで、あるいはイタリアだったかもしれな…

「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

和洋折衷のコミックバンド すでに述べたように、小林秀雄のいう「「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンド」のひとつである江川・亀山コンビが読売文学賞を受賞した。これはそのコミックバンドが社会的に認められたということを意味する。誰が…

「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ソシュールが右翼? 今から考えると、離人症から私が癒えはじめたとき、つまり「[file:yumetiyo:森有正、そして小説について.pdf]」で述べたような出来事が私に生じたとき、私は「自尊心の病」から癒えはじめたのだと思う。言い換えると、60年安保で逮捕さ…

「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

離人症患者なのに この連載の第一回で「森はソシュール言語学の正しさを一生を棒に振って証明しただけだ」と述べた。ソシュールの言語学によれば、というか、死産児ではなく、常識が損なわれていないとすれば誰でも分かることだが、われわれが言語の壁を越え…

「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

死産児はいちばん大事なことを避ける 埴谷雄高、江川卓、亀山郁夫など死産児が書くドストエフスキー論の特徴は、いちばん大事なことをわざと避けるようにしている、ということだ。いや、これは脇から見ると、そう見えるというだけで、死産児当人は避けている…

「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 鬼束ちひろの「月光」という歌は、こんな風に始まる。 I am GOD'S CHILD(私は神の子供) この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?) こんなもののために生まれたんじゃない (『や…

なぜドストエフスキー論はカナリアなのか(補足)

「カナリアとしてのドストエフスキー論」でドストエフスキー論はカナリアだと述べた。私のこの言葉を不審に思う人がいるかもしれない。なぜドストエフスキー論だけなのか。トルストイ論やチェーホフ論はカナリアにならないのか。そう問う人がいるかもしれな…

「日本教」の消滅(承前) 

これまで述べてきたように、死産児の内面と現在の日本の状況は重なる。それは当然そうなるはずであり、日本人の多数派が死産児ということになれば、その死産児たちが生きている日本の社会は彼らの内面を反映したものになるからだ。この点についてあと少し述…

「悪霊」は死産児に入る(承前) 

前回、ドストエフスキーのいう「偶然の家族」について少し述べた。この偶然の家族は、日本の死産児について論じるために無視することのできない現象なので、再び取り上げておこう。 ドストエフスキーはその後半生のほとんどを費やして、この偶然の家族に深く…

日本における死産児(承前) 

これまでの説明で死産児とは何かについておおよその理解は得られたことと思う。しかし、その不十分な説明だけでは、これから議論を進めてゆくとき、読者にさまざまな疑問が生じてくるだろう。そこで、日本における死産児について、あと少し説明しておこう。 …

破滅に向かう日本人(承前)

これまで私は江川卓のドストエフスキー論を批判し、亀山郁夫のドストエフスキー論とその『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を批判してきた。亀山がドストエフスキー関係の仕事をやめるまで、これからもその二人と彼らの仕事を擁護する者たちを批判し続けるつもり…

死産児を食い物にする邪教(承前)

私のいう「真正のドストエフスキー論」とは素晴らしいドストエフスキー論ということではなく、「この筆者ならこういうことだけはしないだろうな」という信頼感を読者に与えてくれるドストエフスキー論のことにすぎない。この「こういうこと」とは、原作から…

カナリアとしてのドストエフスキー論

これまで亀山郁夫のドストエフスキーの翻訳やドストエフスキー論を読んできて痛感したのは、「いくらなんでもここまではしないだろう」という一線を亀山が平気で踏みこえてしまっているということだ。たとえば、亀山による『悪霊』のマトリョーシャ解釈や『…

心の声

若い頃。 顔を見ただけで「私の会いたい人はこの人ではない」と思う人がいる。そして少し言葉を交わし、「やっぱり、思っていたとおりだった」と思う。一方、顔を見ただけで「私の会いたい人はこの人だ」と思う人もいる。そして少し言葉を交わし、「やっぱり…