「リアリティ」とは何か(2) 

 すでに述べたように、拙論「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について」は補遺も合わせると9回連載した。といっても、各回ごとに内容が完結するように書いたので、「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」([file:yumetiyo:ゴーゴリとワイルド(5).pdf])も、それだけで理解して頂けるはずだ。しかし、分かりにくいと感じる人もいるかもしれないので、その概略を説明しておこう。
 「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」では、竹内成明(「文学の言語」、桑原武夫編、『文学理論の研究』所収)が考案した数式を私なりに改良し、文学作品におけるリアリティを説明している。まず、その竹内のつくった数式の意味を説明しよう。

(A+B)e=Ae+Be
(A+B)f=Af+Bf

 (A+B)というのは或る文の集合のことで、この(A+B)は、AとBの要素ですべて、という意味ではなく、(A+B+・・・)という風に要素をいくらでも拡大することもできる。それを便宜上、(A+B)と表現しているだけだ。
 また、eやfというのは竹内によると「文章全体の意味を決定する、潜在的な要素のこと」だ。
 以上の事態を具体的な例を挙げながら説明してみよう。たとえば、西脇順三郎の、

       眼
 
 白い波が頭へとびかゝつてくる七月に
 南方の奇麗な町をすぎる。
 静かな庭が旅人のために眠ってゐる。
 薔薇に砂に水
 薔薇に霞む心
 石に刻まれた髪
 石に刻まれた音
 石に刻まれた眼は永遠に開く。

 という詩で、第一行目をA、二行目をBという風に表すとすると、詩全体は(A+B+・・・)と表すことができる。AやBを更にこまかくとって、Aを「シ」Bを「ロ」Cを「イ」としてもいいし、逆にAを詩の第一連、Bを第二連という具合にとってもいい。要するに、(A+B+・・・)というのは或る文の集合。
 では、何が作者に言葉をそのように並べさせたのか。それは作者に言葉をそのように並べさせる「潜在的な要素」(eやf)があるからだ、と竹内はいう。また竹内によると、読者が或る作品から意味を読み取ることができるのは、読者の側にも同様の潜在的な要素があるからだ。
 たとえば、作者が(A+B)というテキストにeという潜在的な要素を与えてやるとすれば、両者を掛け合わせたもの、すなわち、(A+B)eというのが作者の意図したテキストの意味である。ところが、或る読者が、この同じテキストにfという潜在的な要素を与えるとすると(A+B)fとなり、作者が読み取ってほしいと思っている意味、Ae+Beではなく、Af+Bfという意味を読み取ってしまうことになる。
 といっても、言うも愚かなことながら、じっさいにそのような掛け算が行われるわけではなく、(A+B)e或いは(A+B)fというのは、作者や読者が(A+B)というテキストにeやfを与えようとしている行為そのものを「比喩的に」表し、そのカッコを外したAe+Be、Af+Bfというのも、その行為の結果もたらされるテキストの意味を「比喩的に」表しているだけだ。
 しかし、いくら比喩的であるにしても、竹内のように潜在的要素をeあるいはfというだけでは余りにも漠然としすぎている。これではその数式は実際の作品を扱うさい使いものにならない。従って、もう少し具体的な意味を帯びたものに作り変える必要がある。
 また竹内の数式では文学作品に読者が感じる生命感のあるリアリティについて説明できないので、その生命感はなぜ生じるのかについても説明を加えなければならない。
 私の議論は以上二点をめぐって展開する。
 まず、竹内のいう潜在的要素とは、私たちの自我を成立させている過去の経験を総称したものにすぎないと言えるだろう。そこで竹内のいう潜在的要素を次の三種類に分類する。
 (1)文学的教養体験、(2)人生的経験、(3)創作あるいは読書のさいの、一過性の身体条件と環境。
 (1)の「文学的教養体験」というのは、文学作品を読み書きしたとき得た経験だけではなく、誰かとのお喋りや誰かの文学の講義などから得た経験のことでもある。(2)の「人生的経験」というのは文字通りの意味で、(1)以外の経験はすべてここに入る。一方、(3)の「創作あるいは読書のさいの、一過性の身体条件と環境」は、連歌など即興的な作品の場合、大きく作用する場合もあるかもしれないが、その即興を生みだす主体は(1)と(2)の経験によって形成されるのだから、(3)は潜在的要素に数えないことにする。
 さて、(1)の「文学的教養体験」の全体をXとし、(2)の「人生的経験」の全体をYとしよう。集合Xは要素x1,x2,x3・・・(このブログでは正しい表記ができないので、正しい表記については「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」[file:yumetiyo:ゴーゴリとワイルド(5).pdf])を見てほしい)から成る。また、集合Yは要素y1,y2,y3・・・(これも正しい表記は上記の拙論を見てほしい)からなる。というと、数学嫌いにとっては血の気が引く思いがするかもしれないが、そんな風になって頂く必要はなく、これは要するに、文学的教養体験、人生的経験といってもさまざまだ、ということにすぎない。
 さて、私たちは、どのような場合、或る文学作品を読んでリアリティを感じるのか。それを比喩的に図示してみよう。私にはこのブログで図を表示する技術がないので、これも拙論「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」9頁目の4つの図を見てほしい。
 (I)図では、テキストの集合全体を比喩的に意味する円(A+B+・・・)と、読者あるいは作者における二つの潜在的要素、つまり文学的教養体験Xと人生的経験Yを合わせたものを比喩的に意味する円(X+Y)が離れている。
 これはテキストと読者の潜在的要素が何のかかわりももたないケースで、読んでも無意味なケースだ。たとえば、中学生が『罪と罰』を読む場合など。『罪と罰』を読むためには少なくとも成人が味わうさまざまな人生的経験が必要なので、『罪と罰』のテキストの大半が十五歳以下の者では(I)のケースになる。亀山郁夫のように『罪と罰』を読んでじつに面白かったと述べる中学生がいるとすれば、そんな早熟な天才の出現に驚くと同時に、眉に唾をつけざるを得ない。
 一方、(IV)図では二つの円がそのまま重なる。これはきわめて妄想的だ。私たちの潜在的要素がすべて言語化されることはありえない。しかし、そう錯覚することはありうる。たとえば、『罪と罰』を熱狂的に読み終えた直後など。「ここには自分の言いたいことがすべて書いてある!」と熱に浮かされたように思うかもしれないが、それは錯覚だ。
 さて、(II)図。これこそ私たちがテキストにリアリティを感じるケースだ。
 ここでは、二つの円が接している。つまり、私たちの潜在的要素がテキストとその円周において接している。このとき、私たちはテキストにリアリティを感じている。なぜなら、円周とは円の内部であると同時に外部でもあるからだ。つまり、接点にある私たちの潜在的な要素は、既存の潜在的要素の反復であると同時にそうではなく、一方、テキストにしても既存の意味を温存・反復しながらも、私たちの潜在的要素に対応する新しい意味を獲得している。
 要するに、(II)では、私たちの潜在的要素あるいは経験がテキストにおいて、たんに反復されているだけではなく、一種ツボにはまったような形で反復されている。言い換えると、私たちの経験がこれ以外の形はありえないという切迫感をともなって反復されている。
 たとえば、先の西脇の詩を読んで、ツボにはまった感じをもつとすれば、それがテキストにリアリティを感じているということだ。このとき、テキストにおいて、私たちの経験が反復されると同時に、まったく新しい形式を与えられ、新しい経験へと変容されているのだ。このテキストによって与えられる「新しさ」が、私たちに「動物的生命感」、すなわち、生き生きとした感じ、すなわち、生き生きとしたリアリティをもたらすのである。「動物的生命感」というのはベルクソンの『創造的進化』から思いついた概念で、既存の事態を乗り越えるとき、「動物的生命感」を私たちは感じる。この「動物的生命感」については、次回改めて説明するが、今は「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」(pp.4-6)を見てほしい。言うまでもないことだが、私たちが「この文章にはリアリティがある。」という場合、その文章が私たちにとって生命感あふれるものとして感じられるということだ。だから、生き生きとしていないリアリティというものはあり得ない。ある文章が生き生きとして感じられないとすれば、その文章によって私たちが受けとるのはリアリティではなく、(III)図のような退屈な感覚にすぎない。
 最後に、その(III)図の二つの円が重なり合う斜線部。ここでは私たちの経験が変容されずそのままテキストにおいて反復されている。凡庸な詩や小説によくあるケースだ。あまりにも当たり前で、何の切迫感も感じないケース。
 このようなテキストからは生き生きとしたリアリティを感じないので、私たちの大半は読むのをやめるだろう。また、こんなものを書く作者の書くものは二度と読まないだろう。なぜなら、その作者にとっては生き生きとしたリアリティのあるテキスト(だからそれを書いたのだろう)が、私たちにとってはそうではないということは、その作者の文学的教養体験と人生的経験が、私たちのそれをまったく乗り越えていないということを示しているからだ。ひとことで言えば、そのような作者は私たちにとって、つまらない存在なのだ。このため、私たちはそのテキストを読んでも、何の「動物的生命感」も感じない。生死の境目をさまようとか、よほどのことがないかぎり人間は変わらない。だから、退屈なものを書く人間がこれから書くものを読んで私たちが退屈する確率は非常に高い。だから、もう二度と読むまいと決心してもそう間違うことはない。
 ところで、以上から、「お勉強」あるいは商人としてではなく、本気である小説を論じるということは、その小説のどのような部分に自分がリアリティを覚えているか、あるいは、覚えていないか、ということを告白することであり、それはすなわち、自分がどのような文学的教養体験と人生的経験から成る存在であるかを告白することだということが分かるだろう。
 たとえば、『罪と罰』のマルメラードフに(II)図のようなリアリティを覚えるとすれば、それは自分の文学的教養体験と人生的経験がマルメラードフという人物において反復され変容されているということを意味する。一方、マルメラードフを(I)図のように理解を絶した人物と思うとすれば、読者の文学的教養体験と人生的経験は、そのような人物を理解できるほど成長していないのだ。また、自分をマルメラードフ同様罪深いと思っている者はマルメラードフを自分の分身のように思うかもしれず、(IV)図のように「これこそ私だ!」と思うかもしれない。一方、これまでマルメラードフのような人物に翻弄されてきた人生的経験をもつ読者には、マルメラードフは(III)図で表される、思い出したくもない、あるいは、うんざりするほど憎たらしい人物かもしれない。
 もちろん、以上のことは、バフチンのいう「モノローグ小説」でも生じる事態だ。しかし、モノローグ小説の読者には、作者が指し示したようにテキストを読む以外の自由はほとんど残されていない。たとえば、『暗夜行路』の時任謙作に対して読者が抱くイメージは似通っているだろう。時任謙作という人物像にあいまいなところはほとんどない。
 これに対して、先に挙げたマルメラードフはどうか。彼の人物像が時任謙作に比べてはるかにあいまいで確定していないことは明らかだろう。彼は根本的にモノローグ小説の登場人物とは異なる形で描かれているのだ。これが私が「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」で述べた事柄だった。
 従って、ドストエフスキーの書いたテキストのどこにリアリティを感じるのかということによって、また、そのことを世間に公表するとすれば、読者は自分の文学的教養体験と人生的経験がどのようなものであるのか、つまり、自分がいかなる人間であるのかを世間に公表してしまうのだ。
 下品な言い方を許して頂けるなら、ドストエフスキー論を書くとは、いわば繁華街で真っ昼間、ストリップ・ショーを演じるのと同じなのであり、自分の美点も恥部も凡庸さもあらいざらい公衆の眼にさらすということなのである。
 従って、自分を巧みに隠蔽したドストエフスキー論、たとえば、「学術論文」という美名のもとに自己を隠蔽したドストエフスキー論など、ドストエフスキー論でさえない。なぜなら、そのような論文を書くこと自体、論者がドストエフスキーの小説における構造、すなわち、ポリフォニー小説を論じることはそれを論じる者の姿を明らかにしてしまう、という構造に無知であることを示しているからだ。もし無知でないとすれば、そのような「学術論文」を書くこと自体、その論者がドストエフスキーの小説の登場人物、たとえばルージン(『罪と罰』)のような自分を巧みに隠蔽できる世渡り上手であることを世間に向かって明らかにしているだけなのである。
 「ドストエフスキーを読んではいけない人」で述べたように、ルージンのような世渡り上手にドストエフスキーは分からない。
 ところで、いくらモノローグ小説に比べてポリフォニー小説でははるかに読みの自由度が高いと言っても、そこにはおのずから限度があり、その自由度は文章単位の自由度ではない。「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」で述べたように、ドストエフスキーポリフォニー小説は前衛詩ではもちろんなく、また、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のような前衛的散文でもない。だから、亀山郁夫が『悪霊 神になりたかった男』で述べたようなマトリョーシャ論は成立するはずもないのだ。これから亀山郁夫ドストエフスキー論を批判してゆくが、その前に「動物的生命感」について少し説明しておこう。