2013-04-01から1ヶ月間の記事一覧

ユーモア

桑原武夫が「ものいいについて」(1946年)というエッセイで紹介していることだが、中国人の林語堂が「日本人はユーモアが零点だ」と述べているそうだ。これはたしかにその通りで、中国人ではない私でさえ、いつも身にしみて感じていることだ。 私は子供…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ありのままでいい 前回、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、そして『悪霊』にスタヴローギンが登場した日はロシア正教の十字架挙栄祭で、旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。また、亀山のように、十字架挙栄祭が9月14日だということにすれ…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

タイム・テーブルの話 『謎とき『悪霊』』は107ページから「運命的な一日」と題して、ワルワーラ夫人とその息子ニコライ(スタヴローギン)の話に移る。このあたりの亀山の説明はいたって平凡で、『悪霊』を読めば分かることが述べられているだけだ。 た…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

ドストエフスキーの作品は「第二芸術」か 亀山の『謎とき『悪霊』』は446ページもある大冊だが、その最初の40ページで、『悪霊』が書かれた時代の説明、『悪霊』を書いていた頃のドストエフスキーの生活、『悪霊』第一部の粗筋、と言う風な順序で述べら…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

読者なのか作者なのか、はっきりしろ! 大学などで禄を食む文学研究者の書いた論文を読むと、しばしば、「それがどうした?」という気持になる。要するに、中途半端なのである。「あんたはこの作品を読者として読むのか、それとも作者として読むのか、どっち…

埴谷雄高

私は埴谷雄高の書くものを一度も良いと思ったことがない。初めて読んだ埴谷の本は『闇の中の黒い馬』だった。私の好きな中村光夫がラジオで誉めていたので買ったのだ。それに、当時、私の家で居候をしていた従兄弟が「はにや、はにや」といつも神さまのよう…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(8)

(承前) (2)マトリョーシャもマゾヒストではない 前回は亀山がいかに常識外れの読み方をするのかについて述べたが、今回もその続きである。 ただ、その前に、これまで亀山批判を行ってきた中で常に感じてきたことについて少し述べておこう。 私が大学や…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(7)

(承前) 亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で述べたマトリョーシャ=マゾヒスト説については、まず「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 」で、次に「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で批判した。その批判の根拠は「常識」…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

(承前) これから亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』を批判してゆくのだが、本当のことを言うと、こういうことはやりたくない。なぜか。それは、たとえば江川のラスコーリニコフ=666説にせよ、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説にせよ、それを批判するのは…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

(承前) ドストエフスキーを「ええかげん」に読むというのは、亀山のように無茶苦茶に読むということではない。そこには厳然としたルールがある。そのルールの範囲内で「ええかげん」に読め、ということだ。そして、繰り返しになるが、「自分の全存在をかけ…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。 「謎とき」とは何か。分かりきったことを…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

(承前) 「「謎とき」シリーズがダメな理由(5)」で述べたことだが、文学作品のテキストを創作ノートや同時代人の証言などを参考にしながら解釈するのは間違っている。作者の手紙を参考にするのもだめだ。なぜか。 それは自分で小説を書いてみればすぐ分…