コップの中の嵐

 長瀬隆からの返信を一ヶ月待っているが、来ないので、この文章を書く。ドストエフスキーに関心のない人にはつまらないコップの中の嵐だろう。しかし、ジラールのいう模倣の欲望を明らかにしている話だと思うので、ドストエフスキージラールに興味のある人は読んでほしい。
 『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)の、「そのような人に言うが、私は亀山を馬鹿だと思いこそすれ、うらやましいと思ったことなどない。馬鹿にあこがれる者がどこにいるだろう。」に続く以下の箇所を、私は2010年11月28日に削除した。

「亀山を批判することができるのは、自分の自尊心に気づいている者だけだ。自分の自尊心に気づいていない者、たとえば、恩師の訳業を横取りした長瀬隆のような人物が亀山を批判すれば、それは嫉妬あるいは付和雷同にすぎない。それは嫉妬あるいは付和雷同であって理性的な批判ではない。長瀬は亀山と同じ穴のむじななのだ。二人とも自分の自尊心に気づいていない。このため二人ともジラールドストエフスキーを理解することができないのだ。

 削除したのは、長瀬隆から削除せよという抗議が来たからだ。あとでその理由を述べるが、私は長瀬からのそのような抗議を待っていた。そこで、この文は「蜷川譲の疑問」の反復にすぎず、新しい情報は含まないので長瀬の抗議を容れて削除した。
 削除はしたが、もちろん私の長瀬に対する疑いが消えたわけではない。つまり、「蜷川譲の疑問」でも述べたように、私の長瀬への疑問は、なぜ長瀬は恩師の名前で、あるいは「松尾訳+長瀬補訳」の形で訳書を出版しなかったのか、という一点に尽きる。そうしなかったのは、長瀬が恩師の松尾隆に対してジラールのいう「模倣の欲望」を抱いていたためではないのか、と私は推測した。また、長瀬がそのような模倣の欲望に憑かれたまま、模倣の欲望を批判しているジラール理論を用いて『ドストエフスキーとは何か』(長瀬隆、成文社、2008)を書いたことに驚いてもいた。これではまるで亀山郁夫と同じではないか。いや、公平に言えば、恩師の訳業を盗用していない分だけ亀山の方が長瀬より罪がはるかに軽い。
 さて、「蜷川譲の疑問」で述べたことの繰り返しになるが、『ドストエフスキーの創造』(ペレヴェルゼフ著、長瀬隆訳、みすず書房、1989)の長瀬による後書きと、蜷川の長瀬批判を読むと、多くの人が私と同様の疑問を抱くに違いない。私はペレヴェルゼフのその訳書の後書きを二十年前に読み、恩師の訳業をそのまま利用するなんて、なんて傲慢な人だ、と思っていた。しかし、まあ、私の知らない事情が何かあるんだろう、ぐらいに思って、自分を納得させていた。また、何の根拠もなく、ドストエフスキーの愛読者に恩師の訳業を盗むような者がいるはずがない、とも思っていた。このような推測が、十年前、蜷川の松尾隆の伝記を読むことによって、大きくぐらついた。そして、あとで詳しく述べるように、最近長瀬のドストエフスキー論を読むことによって、長瀬に対する私の疑惑は決定的なものになった。このため、「蜷川譲の疑問」で次のように書いた。

・・・誰が読んでも、蜷川と同様、長瀬隆の態度は不自然だと思うだろう。恩師の訳稿なら恩師の名前で出版するのが礼儀ではないのか。あるいは、それがあまりにも未完成のものであったとすれば、手直しした上で、少なくとも共訳という形で出版するのが礼儀ではないのか。
 いずれにせよ、長瀬隆の、蜷川譲に松尾隆の訳稿を見せないという態度が理解できない。見せると何か都合の悪いことでもあるのか。
 はっきり言おう。この蜷川譲の文章を読む限り、私だけではなく誰でも、長瀬隆が恩師の訳稿を盗みだし、自分の名前で出版したと思うだろう。・・・

 初めに述べたように、私がこのように書いたため長瀬から抗議のメールが来たのだった。そして長瀬は自分のホームページに、「萩原俊治の愚論」と題する文章を掲載した。これは私と交わしたメールのうち自分のメールだけを、私の了承を得ずに掲載したものだ。そこで長瀬は私がマルクス主義を嫌っているとかトロツキー嫌いだとか述べているが、あとでも説明するように、これはまったくの誤解だ。
 以下長瀬の了承を得ずに私のメールを公開するのは、長瀬が私の了承を得ずに自分のメールを公開したからではない。私のメールに対する長瀬からの返事がいくら待ってもこないので、公開するだけだ。このメールは「萩原俊治の愚論」の末尾にある(4)という長瀬のメールに対する返信だ。
 私はこのメールを、Cc:を付けた6名に宛てても書いている。木下豊房と藤井一行以外の4名は私の知らない人だ。こんな変なことになったのは、それまで一対一のやりとりだったメールに、長瀬が私の了承を得ないで、いきなり6名のCc:を付けたからだ。私は不意に長瀬の友人たちに取り囲まれるような形になった。またか、と私は思った。
 すでにこのブログでも述べたことだが、これと同様の経験を、私はこれまで何度もしてきた。ある集団あるいはタコツボのボスあるいはボスの側近を批判したとたん、あっというまにその集団に取り囲まれ、全員から袋だたきに遭うという経験だ。これまで深くコミットした集団では例外なくこのような経験をしてきた。天皇制、タコツボ、甘えの構造・・・と名前は何とでも付けられるだろうが、三十年ぐらい前から、私はそのような集団とはできるだけ一線を画し、単独者として生きる道を選んだのだ。しかし、こちらが一線を画していても、そのタコツボ集団の方から私の方に接近してくることはしばしばあった。今回もそのようなケースだろう。長瀬はもちろん自分の行為の意味に気づいていない。
 言うまでもないことだが、長瀬が私に対して集団で行おうとしたことこそ、ジラールが繰り返し論じている模倣の欲望による集合暴力なのである。自分の自尊心に気づいていない集団の成員が、結局そのため、模倣の欲望に憑かれ、互いの欲望を模倣し、個性を失い均質化される。そして、集団にとって異質な存在を「犠牲の山羊」として血祭りにあげ、排除するのだ。たとえば、佐藤優が岩波の『世界』編集部の金光翔に集合的暴力をふるい編集部から追い出したのも、佐藤や『世界』編集部の人々が自尊心の病に憑かれていたためだ。このような佐藤と『世界』編集部の振る舞いを批判するため、私は「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」に署名した。
 ところで、長瀬に勝手にCc:を付けられた長瀬の友人たちこそいい迷惑であったかもしれない。また集団で一人に暴力をふるうような情況を作ってはいけない、と、長瀬をいさめた友人もいたかもしれない。私はそう信じたい。
 しかし、長瀬が徒党を組んで私を攻撃しようと思ってCc:を付けたことは明らかだろう。なぜなら、長瀬が自分の自尊心の病に気づいていないのは明らかであるからだ。長瀬のように単独者として生きることをせず、徒党を組みながら生きるのが当然と思うことじたい、自分の自尊心の病に気づいていないということだ。また、徒党こそ、ドストエフスキーが『悪霊』で扱ったテーマのひとつなのである。
 『悪霊』ついでに言っておくが、私はマルクス主義が嫌いなのではなく、マルクス主義という「物語」を用いて、まるで自分が神になったかのようにのぼせ上がり、自分には他人に際限なく暴力をふるう権利があると思う人間を憎むだけだ。「ドストエフスキーと二つの不平等」という論文などで述べてきたように、私は無神論者ではないが、マルクスの思想それ自体を否定するわけではない。さて、私の返信を掲げよう。

拝復(ご迷惑かもしれませんが、Cc:の方にもお送りします。)、
わたしは事実を知りたいだけです。長瀬さんの嫌疑が晴れれば、わたしにとっても嬉しいことです。
一昨年でしたか、長瀬さんから来たメールに返事をお出ししたとき、私は蜷川さんの松尾隆の伝記はすでに読んでいると書きました。蜷川さんの松尾隆の伝記は、もうだいぶ前になりますが、出版されてすぐ読みました。なぜそうなったかについては、ブログにもその理由を書いています。昨年読んだのではありません。
ただ、その後、送っていただいた長瀬さんの小説は別として(お会いしたとき言いましたが、長瀬さんの小説をわたしは高く評価します。)、長瀬さんから一割引で直接買わせて頂いたドストエフスキー論を読んでゆくにつれて、これは?、と、しだいに否定的な評価に傾き始めました。そして、失礼ながら、こんな人がなぜドストエフスキーをやっているのだろうと、思うようになりました。ジラールをまったく誤解しています。長瀬さんがドストエフスキーをやる必然性が感じられません。そこで、『ドストエフスキーの創造』の翻訳がドストエフスキーをやる契機になっているのではないのか。D.H.ロレンスなどに対する言及も松尾隆の模倣ではないのか、しかし、なぜ、長瀬さんが『ドストエフスキーの創造』を訳さなければならないのか。松尾隆の訳文がどれくらい利用されているのか・・・と、こういろいろ考えてきて、わたしの頭は疑問で一杯になりました。
わたしが松尾隆の遺族なら、赤の他人に父親の原稿をだまって利用されたらたまらないだろうな、とも思いました。
というような疑問を、わたしは長瀬さんに直接ぶつければよかったのかもしれません。
しかし、蜷川さんの松尾隆の伝記はすでに公刊され、多くの読者を獲得しています。すなわち、これはわたしと長瀬さんだけの問題ではなく、つまり、私的な問題ではなく、すでに公の問題になっています。
そこで、わたしはブログに蜷川さんの長瀬さんに対する疑問を書き、それが意味するところを説明しました。説明しただけです。誰が読んでも分かることを述べただけです。そこにわたしの長瀬さんに対する悪意は何もありません。わたしは事実を知りたかっただけです。わたしは自分の疑問を持ちきれなかったのです。蜷川さんの言う通りであれば、長瀬さんはたいした悪人です。
そして、長瀬さんからの反論や、その他、当時の事情をよくご存知のかたの反論をお待ちしていました。しかし、何の反論もありませんでした。しかし、わたしは反論をいつまでも待つつもりでした。
従って、ようやく今回のような事態になり、わたしは心から喜んでいます。少し遅すぎた感がありますが、遅くともないよりはましです。
なぜなら、これで、わたしも含めて、多くの人びとが抱いているはずの長瀬さんへの疑惑が晴れるかもしれないからです。少なくとも、長瀬さんは自分に対する疑惑を晴らす良い機会を獲得したことになります。わたしのようにはっきり言わなくとも、『ドストエフスキーの創造』のあとがきや蜷川さんの松尾隆の伝記を読んだ人は、わたしと同じような疑問を長瀬さんに対して持っていると思います。持たない方が不思議です。
ですから、これまでの長瀬さんとの往復書簡の経緯をブログに掲載し、長瀬さんの嫌疑を晴らしたいと思いますが、どうでしょうか。そのさい、できれば、蜷川さんにも連絡をとって反論をして頂きたいと思っています。わたしはあくまで中立的な立場をつらぬきます。わたしはいま亀山郁夫批判を行っていますが、亀山のふるまいが正当なものであれば、それはそれで認めます。誰に対しても同じです。知り合いの長瀬さんだからといって特別扱いをすることはしないつもりです。
そこで、このメールの最後にもう一度、二点だけ質問させていただきます。

(1)前便の繰り返しになりますが、前便でわたしは『ドストエフスキーの創造』の翻訳にさいして、松尾隆氏の遺稿を利用するのに、長瀬さんはご遺族の了解はとられたのか、と質問しました。明確な御返事を頂きたいと思います。口約束ではなく、なにか証明できるものがあれば、お示し下さい。松尾隆氏の遺稿はご遺族の財産です。法的にはどうかは知りませんが、少なくともそれを無断で使用するのは人倫に外れます。

(2)長瀬さんは『ドストエフスキーの創造』のあとがきで「私が文書を入手したのは文集の発刊後であった。一年におよぶ調査と研究の後に、私が未読であったペレヴェルゼフの論文の翻訳に相違ないと確信するにいたり、新谷敬三郎早大露文科教授に連絡し、早大図書館から借り出していただき、二人でそうであることを確認したのである。これが本訳書の成立の契機である。」と書かれています。つまり、長瀬さんのその文を読むかぎり、その松尾隆の翻訳は長瀬さんの「私物」ではなく、図書館から借りだした、誰が読んでもいい「共有財産」であるという風に読めます。従って、長瀬さんのその文によれば、その松尾隆の翻訳は、松尾隆のご遺族の財産であるとともに、早稲田の図書館に返却すべきものではないのですか。長瀬さんが、そのような共有財産を蜷川さんが読みたいと言われたのを拒否した理由が理解できません。また拒否する権利は長瀬さんにはないと思いますが、どうでしょうか。
 従って、長瀬さんがそれを図書館に返却なされば、わたしはそのことを蜷川さんにお知らせして、どうぞお読み下さいとお知らせするつもりです。こうすれば、前便で長瀬さんが要求されていたような事態、つまり、蜷川さんが長瀬さんの自宅に行って松尾隆の翻訳を読まなければならない、というような事態を回避することができます。前便で長瀬さんが示されていたような態度、蜷川さんを呼びつけて、読みたいのなら読め、というような長瀬さんの態度は、わたしにはとうてい理解できません。繰り返しますが、松尾隆の翻訳は長瀬さんの私物ではないはずです。用が済めば、図書館に返すべき物です。

 以上です。
 お返事お待ちしています。
 取り急ぎ乱文にて失礼します。

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萩原俊治(はぎはら しゅんじ)

 このメールに対する長瀬からの返事はまだ受けとっていない。長瀬は「萩原俊治の愚論」の末尾の注で私に返事をしたつもりなのだろうか。しかし、この注は何度読んでも意味が分からない。

(注) (4)は(3)におけると同様に藤井一行、木下豊房および吉田嘉清氏ら4人の早大OBに送付されました。彼(萩原のことか:萩原)からは返信があり、私に松尾遺稿を早大図書館に返却するよう求めてきました。松尾隆の全遺稿はかつて一度も早大図書館に保管されたことはなく、私は同図書館から借用したのではないにもかかわらずです。彼(萩原のことだろう:萩原)によれば私は1987年に早大図書館からそれを借用し、以来23年にわたって手元に置き、彼(萩原のことだろう:萩原)によれば「私物化」しているというのです。 早大図書館は教職員以外には書籍資料の館外貸し出しを許してはおらず、私には当時も今もその資格はありませんでした。また同図書館は貸し出された書籍資料を23年にわたって放置するようなでたらめなところではありません。 それでは松尾隆文書は1986年の没後三十年の集いと文集製作の時点で「発見」されるまで、何処に在ったのでしょうか。それについては『早稲田・1950年・史料と証言』の拙連載評論が述べておりますので、それを読んでいただくことを望みます。なおこれは、その他の史料とともにいずれ公刊するつもりでおります。遅滞しているのは今日の出版事情と、私の資金不足のためであります。ご援助してくれる方が居られるならば、お頼りし、深謝いたします。
長瀬隆

 それでは長瀬は早稲田大学図書館から新谷敬三郎を通じて何を借り出したのか。くどくなるが、長瀬はペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』の「訳者の解説と後記」で、次のように述べていたのだった。

・・・一九八六年十二月、教授に縁のあったかつての学生たちによって記念の集まりが持たれ、文集『松尾隆』(副題は「早稲田の疾風怒濤時代を生きた一教師」)(新製作社)が刊行された。その準備の過程で一連の未発表の文書が発見された。一つは小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』に関する依頼原稿であり、いま一つは、『ドストエフスキーの芸術』と題された六百枚弱の文書であり、前者の全文と後者の最初の一章が文集に収録・公表された。
 私が文書を入手したのは文集の発刊後であった。一年におよぶ調査と研究の後に、私が未読であったペレヴェルゼフの論文の翻訳に相違ないと確信するにいたり、新谷敬三郎早大露文科教授に連絡し、早大図書館から借り出していただき、二人でそうであることを確認したのである。これが本訳書の成立の契機である。

 長瀬が図書館から借りだしたのは、松尾隆の遺稿なのか、それともペレヴェルゼフの原著なのか。「萩原俊治の愚論」の末尾の注によれば、松尾隆の訳業をも含む遺稿ではない。ということになれば、長瀬が借り出したのは、ペレヴェルゼフの原著だということになる。しかし、もしそうなら、長瀬がそのドストエフスキー論を借り出す前に、なぜ長瀬に、松尾の遺稿が「私が未読であったペレヴェルゼフの論文の翻訳に相違ないと確信」できたのか。そんなことはできないだろう。従って、論理的に推測すれば、長瀬隆が早稲田の図書館から新谷敬三郎を通じて借りだしたのは、松尾隆の遺稿だということになる。
 しかし、繰り返すが、長瀬は「萩原俊治の愚論」の末尾の注で、それが松尾隆の遺稿であることを否定している。結局長瀬は自分で借り出したと述べておきながら、自分でそれを否定していることになる。何が何だか分からない。
 またもうひとつの疑問は、今はコピー機というものがあり、必要なら松尾隆の遺稿をコピーし、蜷川譲のような借りたいという人物が現れれば、遺稿を渡すことができたはずだということだ。なぜそうしなかったのか。意地悪か。いずれにせよ、長瀬の振る舞いは私の理解を超えている。
 以上のことは最初に述べた問題と比べれば些末なことだ。些末ではあるが、それぞれ見逃すことのできない深刻な問題であることに変わりはない。しかし、以上のことを問題にすれば、長瀬はさまざまな理由を持ち出して言い抜けようとするだろう。私が問題にしたいのは、そんな言い逃れが可能な問題ではなく、誰もが最低限守らなければならない倫理に関わる問題だ。
 つまり、繰り返すが、私が問題にしているのは、600枚にも及ぶ松尾隆の遺稿を利用して翻訳したのにも拘わらず、なぜ長瀬は「松尾隆訳」で、あるいは「松尾隆訳+長瀬隆補訳」という形で出版しなかったのか、ということだ。松尾隆の訳業といういわば「虎の巻」がなければ、それまでドストエフスキーとは無縁だったはずの長瀬にペレヴェルゼフのドストエフスキー論を翻訳することなど不可能だっただろう。それとも長瀬は松尾隆の訳業がなくとも自分はペレヴェルゼフを訳すつもりだったと言うのか。