プロットの穴と尻の穴 

 ドストエフスキーの読者には自明の事柄だが、ドストエフスキーの作品のプロット(諸事実の因果関係)には、無数の「穴」が開いている。「穴」とはもちろん比喩的な言い方で、諸事実の因果関係がしかとは確定できないような事態を、私は「穴」と呼ぶ。この穴を読者が埋めてゆくとき、私たちの「正体」(ハナ・アーレントのいう"who")が明らかになる。そしてそれを論文などで世間に発表すれば、論者の正体が暴露される。暴露というと大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、誰もが隠しておきたいような自分の恥部まで公衆の面前で明らかになるのだから、それはやはり暴露というしかない。詳しくは「ドストエフスキーの壺の壺」を見てほしい。
 私たちの正体が暴露されるとは、私たちがどのような欲望を持っているかが明らかになるということでもある。すなわち、私たちの欲望が無神論的なものであるのか否か、異性あるいは同性にどのような変態的あるいは変態的でない欲望を持っているのか、地位や名誉に対してどのような強欲なあるいは強欲でない欲望を持っているのか、あるいは人格的にとんでもない偏りがあるのかないのか、等々が、公衆の面前で赤裸々に暴露されるのだ。
 何度も言うように、自分の正体を他人に知られたくない者は、けっしてドストエフスキーを論じてはならない。下品な比喩を使うのはこれで二度目だが、ドストエフスキーを論じるとは、人通りの多い繁華街で素っ裸になり、尻の穴まで見せるのと同じなのだ。紳士淑女が行うようなことではない。
 しかし、同時に、ドストエフスキーを読んで論じないで済ませるということほどむつかしいこともない。その誘惑に抵抗するのはきわめて困難だ。
 それは、何度も言うが、ドストエフスキーの小説には穴が開いているので、何としてもその穴を埋めたくなるからだ。私たちは不協和音に耐えることができないのと同様、小説のプロットに穴が開いていることに耐えられない。そして、たまたま穴を埋めることができたりすると、喜びのあまり逆上し、私はこういう風に埋めました、と人に言いふらしたくなる。
 というような誘惑にドストエフスキー研究者は気づいていなければならない。長年ドストエフスキーを研究してきた者なら誰でも気づいているはずだ。だから、自分の穴埋めこそ唯一無二と誇ることを恐れ、簡単に自分の尻の穴を見せたりはしない。
 一方、ドストエフスキー研究を始めたばかりの者はたとえ自分の穴埋めが唯一無二のものだと逆上するにしても、自分がドストエフスキー研究において初心者であることは重々分かっているので、逆上しながらも、その穴埋めが正当なものであるかどうかを見きわめようとする。そして、慎重に検討した結果、その穴埋めの間違いに気づき、発表するのをやめる。気づかず発表すれば、尻の穴まで見せたあげく恥をかくだけだ。
 以上、少し誇張して述べたが、これが通常のドストエフスキー研究者の辿る道だと思う。
 ところが、ドストエフスキー研究においては初心者であるにも拘わらず、自分の穴埋めこそ唯一無二と思って逆上し、さらに、その穴埋めは日本の「最先端」を行っているのだ、と豪語しながら尻の穴を見せる人物が現れた。その発言は、文部科学省・学術研究推進部会の「「人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第9回2008年2月15日)」の議事録の中に収められている。
 この議事録は一定期間を経れば削除されてしまうだろう。その全文を当ブログに保存しておくことにする。委員会の名簿「[file:yumetiyo:学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会 委員名簿.txt]」とともに議事録「[file:yumetiyo:学術研究推進部会・人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第9回) 議事録.txt]」をテキスト・ファイルとして保存する。
 なぜ全文を永久保存するのか。それは、読まれれば誰にも分かることだが、退屈な中間部を削除し全体を刈り込めば、ゴーゴリの「死せる魂」に勝るとも劣らない不滅のファルス(笑劇)になるからだ。文部科学省から脚色の許可を得られるとすれば、私が台本を書いて板にのせたい。もちろん、このファルスの主人公を演じるのは、詐欺師チチコフを彷彿とさせる亀山郁夫をおいてはいない。というのは半分冗談で半分本気だが、このファルスの解説は次回に。