『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(2)

エディプス・コンプレックスなどない
 亀山郁夫の文章の特徴は、つかみどころがないことだ。それは亀山が適当な思いつきに嘘をまぶしながら、連想ゲームのように次から次へと妄想を展開してゆくからだ。このため、読者が「変だな」と思っても、もう話題は別のものになっている。だから読者は頭を疑問で一杯にしながら、何が何だか分からないまま、文章を読み続ける。なぜ放り出さないで読み続けるのか。それはそのような読者に正常な批判能力がないからだ。
 しかし、たとえ正常な批判能力があっても、亀山の文章の細部にこだわって批判しているだけだと、亀山のペースに巻き込まれ、批判している方も何が何だか分からなくなってしまう。従って、ウナギのようにつかみどころのない亀山の文章を批判するには、ウナギをさばくとき、釘を頭と尻尾に打ち込み身を切り開いてゆくように、亀山の文章を批判してゆくしかない。その釘にあたるのが、たとえば亀山のドストエフスキー論においては「父殺し」と「使嗾」だ。この二箇所を押さえると、さしもの亀山ウナギもかんたんに調理できる。これから亀山のいう「父殺し」と「使嗾」がどのような嘘なのかについて述べてゆこう。
 さて、理由は次回説明するが、亀山は『ドストエフスキー 父殺しの文学』をルネ・ジラールドストエフスキー論をそっくり真似ながら書いている。しかし、ジラールを理解しないまま真似ているので、それは盗作にはならずドタバタ喜劇になっている。
 ジラールによるドストエフスキー論の邦訳には『ドストエフスキー  二重性から単一性へ』(鈴木晶訳、法政大学出版局、1983)と『地下室の批評家』(織田年和訳、白水社1984)がある。ドストエフスキー論に関するかぎり、この二つの訳本は同じテキストを訳出しているのだが、織田訳にはある「序」と「錯乱の体系──『アンチ・エディプス』」など四論文が、鈴木訳には欠けている。以下の私の説明で明らかなように、この「序」はジラールドストエフスキー論にとってきわめて重要な意味をもつ。ドストエフスキーを論じる者は必ず織田訳の「序」を読まなければならない。
 ジラールはその「序」で、フロイトの論文「ドストエフスキーと父親殺し」を次のように批判する。

 ここに父親殺しを主題とする小説を書いた作家がおり、彼が自分の父を憎悪していたのは周知の事実である。その父は珍しいほど乱暴な男であって、自分の農奴に殺された。フロイトはこの作家に理想の文学的なテーマを見つけた、と思ったのに違いない。このようなことはすべてあまりにも自明だと思われたので、大部分の批評家たちは疑いもせず、フロイトが下した宣託に向かって頭を下げたのである。一件落着、というわけだ。
 このフロイトの論文にはある種の落ち着きの悪さが感じられる。いくつかの適切な指摘のあとで、証明が開始されるが、すぐに終わってしまう。フロイトドストエフスキーを忘れ、あるいは避けて、明らかに彼にとってはずっと扱いやすいシュテファン・ツヴァイクの短編に逃げ込んでいる。
 『カラマーゾフの兄弟』のような作品に対して、精神分析は入口を間違えているのであり、フロイトは自分では認めていないにしても、それに気づかないような凡庸人ではない。『オイディプス王』の神話的要素がここには欠如している。フロイトはこのような著作は、癲癇の発作と同じく、徴候としての意味をもっているはずだ、といいたいようだが、しかし、どんな水準においてなのか。神経症が存在するためには、父親とのライバル関係と父親を殺したいという欲望は無意識のうちにとどまっている必要がある。この場合、そうでないことは明白である。したがって、ドストエフスキーの症例は、外見に現われているよりも、もっと重大であるか、あるいはそれほど重大ではないかのどちらかである。フロイトは第一の可能性を手探りしている。彼はドストエフスキーの「犯罪者的な性格」の輪郭を素描しているが、これにも満足していない。(『地下室の批評家』、pp.31-32)

 このようにジラールフロイト精神分析と『カラマーゾフの兄弟』の不適合性について述べる。
 そして、次のようにフロイトエディプス・コンプレックスの概念はドストエフスキーの作品によって初めて批判されたと述べる。

 今日までのところ、エディプス・コンプレックスというこの建築物はあたかも信仰箇条であるかのように、受け入れられるか、拒絶されるかのいずれかであって、本当に批判されたことはなかった。というのも、それに対比できるようなものは何もないと考えられていたからである。フロイトはその批判のための出発点がドストエフスキーのなかに見出され、彼がこの作家に認めた「炯眼さ」が、明確に表現可能な理論的基盤をもっているとは思いもしなかった。(『地下室の批評家』、p.37)

 要するに、ジラールによれば、フロイトエディプス・コンプレックスだと思っている現象は、ドストエフスキーがその小説の中で繰り返し描いている「無意識的模倣(ミメティスム)」あるいは「模倣の欲望」のあらわれにすぎないのである。従って、『カラマーゾフの兄弟』における父親殺しはエディプス・コンプレックスによるものではなく、模倣の欲望によるものにすぎない。
 何度強調してもし足りないほどこれは真に驚くべき発見であり、ジラールは、ドストエフスキーによって初めてフロイトエディプス・コンプレックスの概念、そして、その概念から派生した『トーテムとタブー』の「父親殺し」のシナリオが根底から否定されていると述べているのである。ジラールのこの発見によってエディプス・コンプレックスに基礎をおいた精神分析の多くの理論が無意味なものになる。また、エディプス・コンプレックスの概念から生まれたフロイトの『トーテムとタブー』の父親殺しのシナリオも無意味なものになる。従って、フロイトエディプス・コンプレックスや「父殺し」を理論枠組として成立している亀山のドストエフスキー論も無意味なものになる。
 ジラールはさらに次のようにいう。

 模倣による欲望とライバル関係には、フロイトエディプス・コンプレックスと異なり、構造をもっぱら消滅させる効力がある。そこに構造化の原理を探求しても無駄である。エディプス・コンプレックスの起源に類似している起源が、ここで問題になっているのではない。ライバル関係は場所と時を問わず、どのような相手とでもあっても、起こりうる。
 『カラマーゾフの兄弟』では、息子たちの父親に対する模倣による関係はたぶん、他のあらゆる模倣による関係以前に遡り、それらと比べてたぶんいっそう破壊的であるが、しかし根本的にはそれらすべてと同一なのである。したがって、エディプス・コンプレックスとの類似は表面的である。フロイトにおいては、無意識的なライバル関係がないとすると、父親は父親ではなく、息子は息子ではなくなるが、ドストエフスキーにおいては、ライバル関係のくつかの帰結は意識されていないとしても、ライバル関係は完全に自覚されている。そして父親が容易に自分自身の息子のライバルになればなるほど、彼はますます父親でなくなる。原初的な犯罪は、フロイトにおけるような父親殺しではなく、嬰児殺しなのだ。父親の資格および子を生む者としての役割にもかかわらず、カラマーゾフの父は結局、悪い兄弟でしかなく、一種の「分身」なのである。われわれはもはや兄弟たちしかいない世界にいるのだ。
 フロイトエディプス・コンプレックスは模倣によるライバル関係の一つの特殊な場合であり、父親の消滅を隠蔽することを実際の目的としている贋のラディカリズムによって、聖化され、神話化されている。精神分析はこれらすべてを、何かを隠すための言い逃れとしてしか取り扱えない。しかし模倣の観点による解釈を前にすると、自身の父親をあれほど精神的負担としていたドストエフスキーのような場合においてさえ、言い逃れの観を呈するのは精神分析のほうである。人がいつも見せびらかしている父親殺しと近親相姦は、絶対に告白できぬものを隠すための二束三文の秘密にすぎない。父親と母親をもちだすのは、欲望における他者の役割、たとえばもし私が作家だとすると、ある他の作家の役割をけっして白状しないためであり、もし私がヘルダーリンだとすると誰が私のシラーかを、もし私がドストエフスキーであれば、誰が私のベリンスキーであり、私のツルゲーネフかを白状せぬためである。真のライバルが父親という過去におけるライバル、無意識の底の偶像である場合はほとんどなく、現在と未来におけるライバルが真のライバルなのであるが、これは精神分析によって、贋のライバルを主役とする劇の単なる端役に変えられてしまっているのだ。自分にとり憑いている唯一の偶像を過小評価することほど、欲望にふさわしい行為はないのである。(太字による強調は萩原による)(『地下室の批評家』、pp.41-42)

 このようにジラールによれば、フロイトエディプス・コンプレックスは模倣の欲望に包摂される。なるほど、『カラマーゾフの兄弟』において「息子たちの父親に対する模倣による関係はたぶん、他のあらゆる模倣による関係以前に遡り、それらと比べてたぶんいっそう破壊的である。」。しかし、それでもエディプス・コンプレックスは模倣の欲望に包摂される。ジラールの言うように「父親の資格および子を生む者としての役割にもかかわらず、カラマーゾフの父は結局、悪い兄弟でしかなく、一種の「分身」なのである。われわれはもはや兄弟たちしかいない世界にいるのだ。」。
 従って、フロイトエディプス・コンプレックスとそれから派生した「父殺し」のシナリオに従ってドストエフスキー論を展開している亀山のいう、「兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてある」という言葉は間違っている。というより、読めば読むほど結局何が言いたいのか分からなくなる言葉だ。亀山から再び引用しよう。

 だが、『カラマーゾフの兄弟』は、そうしたフロイト流の読みを超えた、はるかに重大な罪の刻印を帯びている。すなわち、父殺しの罪の意識に覆いかぶさるようにして彼を襲ったもうひとつの罪、敢えていうなら、『旧約聖書』のカインとアベルに、さらには『群盗』におけるカールとフランツになぞることのできる「兄弟殺し」の罪である。しかし、あらかじめ述べておきたいのは、この兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてあることである。なぜなら、大いなる統率者、支配者たる父親の死の後にくるのは、当然のことながら、母性を占有してきた父権をめぐる兄弟同士の争いだからである。(以下略)(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.36-37)

 要するに、亀山によれば、『カラマーゾフの兄弟』においては、母親の愛情をめぐって父親と息子たちが争いあうのである。このため、亀山は「兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてある」という。亀山は自分のこの解釈によって「フロイト流の読みを超えた」と豪語しているのだ。亀山はほんとうにこんな嘘が『カラマーゾフの兄弟』、旧約聖書、『群盗』を読んだ読者に通じると思っているのだろうか。亀山は自分のことを語っているだけではないのか。
 繰り返すが、ジラールによれば、兄弟殺しも父殺しも同じ模倣の欲望のあらわれにすぎない。このため、ジラールドストエフスキー論を下敷きにして『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書いていながら、「兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてある」と述べる亀山の愚かさが浮き彫りになる。
 亀山がこんな風にジラールを読み間違えたのは、何度も言うように、亀山が自尊心の病に憑かれているからだ。繰り返しになるが、このことについてもう少し詳しく述べてみよう。
 ジラールは『地下室の批評家』の「序」で次のようにいう。

 私はドストエフスキー論で、この作家のキリスト教は小説をめぐる彼の経験と切り離せないとはっきり述べた。読者の多くはこのような断言は、どんな他の断定よりも、受け入れがたいと判断されるかもしれない。宗教的な前提というとりわけ忌まわしいイデオロギー的前提によって、作品の分析が歪められていると思いこまれるに違いない。(『地下室の批評家』、p.21)

 要するに、キリスト教的な経験をドストエフスキーの小説から切り離すとすれば、模倣の欲望もドストエフスキーも分からない、とジラールはいう。「亀山郁夫とイソップ言語」で述べたように、私はこのジラールの意見に全面的に賛成する。自尊心の病に憑かれ、人間中心主義に捕らわれている者にとって、ジラールのこの言葉は受けいれがたいものに思われるだろう。
 何度も述べてきたように人間中心主義が私たちに自尊心の病をもたらす。そして、自尊心の病によって、自分で自分に目隠しをしているような状態になり、目の前の事実が見えなくなる。たとえば、「金啓子様に」で述べた福中都生子(「「お勉強」」に対する金啓子のコメントを参照)のように、自分自身を欺き、私のいう「物語の暴力」に囚われてしまうかもしれない。
 このような事態をジラールは「ロマン主義」と名づけたのだった。このロマン主義から抜けだすためには、パウロの言うような「砕かれた心」(拙稿「[file:yumetiyo:ドストエフスキーヴェイユ.pdf]」、p.153)を持ち、人間中心主義と縁を切らなければならない。こんなことを言うと、心が砕かれないままジラールの模倣の欲望論を使ってドストエフスキーを論じようとしている者は途方に暮れるかもしれない。
 この意味で、『個人主義の運命』(岩波新書、1981)以来、ジラール理論を用いてドストエフスキーの小説を論じてきた作田啓一はその『カラマーゾフの兄弟』論(『ドストエフスキーの世界』所収、1988)で途方に暮れているように思われる。しかし、作田のような「自己の知的操作に対する厳しい倫理意識」(丸山真男)をもつ者が途方に暮れるのは当然なのだ。一方、そのような倫理意識をもたない亀山郁夫のような者だけが、心が砕かれないまま模倣の欲望論を振り回すのである。ジラールが「序」で述べている次の言葉は、人間中心主義に囚われたままドストエフスキーを読んでいる読者に向けられている。

 キリスト教は作品に外在する要請や、作品の内容を外部から歪める誓約のようなものではなく、小説をめぐる経験、断層の経験であって、この経験はキリスト教と関連をもち、キリスト教によってその意味を次第に明確にされていくのである。
 ここでも、テクストから分離した伝記上の資料にはけっして頼っていない。テクストから離れないで小説をめぐる経験を論じることができ、また論じなければならないのと同様、ドストエフスキーキリスト教について語れるし、また語らなければならない。というのも、今われわれが関わっている次元では、その二つは同じ一つのものに他ならないからである。テクストを忠実に読めば、作品のなかでキリスト教が意味しているものと物語とが分かちがたく結びついている、と結論せざるをえない。ドストエフスキーから彼のキリスト教を切り離すのは、偏見のなせるわざである。今日ではほとんど気づかれていないことだが、こうしてドストエフスキーの作品の理解に欠かせない要素が、なんの必然性もなく排除されるのである。大部分の人々にとって、偏見から自由であるとは、宗教的な信念と欺瞞は常に同じ一つのものだという至上命令に軍人のように服従することである。しかし偏見の見事な実例となっているのは、逆にそのような態度である。(『地下室の批評家』、p.23)

 繰り返すが、このような文章を読むと、作田啓一のように人間中心主義に囚われたままドストエフスキーの作品を読んできた読者は、ジラールの理論を放り出すだろう。すなわち、「偏見から自由であるとは、宗教的な信念と欺瞞は常に同じ一つのものだという至上命令に軍人のように服従すること」と思っているドストエフスキーの読者は、ジラールドストエフスキー論と縁を切るだろう。亀山のような自分が何をしているのか分からない者だけが、自尊心の病に憑かれたままジラールドストエフスキー論を引用し続けるのである。