作品全体が美を定義する

渡辺謙の演技論

さっきテレビを点けると、NHKテレビで俳優の渡辺謙が大河ドラマの「独眼竜政宗」を演じたときの経験を語っていた。要するに、そのドラマを演じているとき彼に分かったのは、伊達政宗という歴史的な人物の一生を見渡しながら、ここはこう演技すべきであると計…

芸術の力

このたび来日した、ビーチ・ボーイズのメンバーだったブライアン・ウィルソンの言葉(『朝日新聞』、2016年3月23日夕刊より)。 「音楽を作るのは時に、とても孤独な作業。その孤独から僕自身を救い出してくれるのは、メロディーなのです、おそらく」 たしか…

何を読むか(5)

「七万人のアッシリア人」(ウィリアム・サローヤン) 年を取ってくると、同じ本をとっかえひっかえ読むようになる、と、昔、年寄りの吉田健一と石川淳が対談で喋っていた。吉田健一はそのあとすぐに、石川淳はそれからかなりたって亡くなった。石川はしぶと…

ピナ・バウシュ

きょう、BSから録画していた「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」というドキュメント映画を見た。大げさではなく、これほど深く感動した映画はない。ほとんど最初から最後まで泣き続けた。これに類似した感動を味わったことがあるだろうか。そう思って…

芸術とは何か

先に述べた「風立ちぬ」の話の続き。 ドストエフスキーとトルストイのどちらがいいか、とか、ベートーベンとバッハのどちらがいいか、とか、朔太郎と中也のどちらがいいか、とか、ゴッホとマチスのどちらがいいか・・・というような質問は愚問に他ならない。…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ありのままでいい 前回、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、そして『悪霊』にスタヴローギンが登場した日はロシア正教の十字架挙栄祭で、旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。また、亀山のように、十字架挙栄祭が9月14日だということにすれ…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

タイム・テーブルの話 『謎とき『悪霊』』は107ページから「運命的な一日」と題して、ワルワーラ夫人とその息子ニコライ(スタヴローギン)の話に移る。このあたりの亀山の説明はいたって平凡で、『悪霊』を読めば分かることが述べられているだけだ。 た…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

ドストエフスキーの作品は「第二芸術」か 亀山の『謎とき『悪霊』』は446ページもある大冊だが、その最初の40ページで、『悪霊』が書かれた時代の説明、『悪霊』を書いていた頃のドストエフスキーの生活、『悪霊』第一部の粗筋、と言う風な順序で述べら…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

読者なのか作者なのか、はっきりしろ! 大学などで禄を食む文学研究者の書いた論文を読むと、しばしば、「それがどうした?」という気持になる。要するに、中途半端なのである。「あんたはこの作品を読者として読むのか、それとも作者として読むのか、どっち…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(8)

(承前) (2)マトリョーシャもマゾヒストではない 前回は亀山がいかに常識外れの読み方をするのかについて述べたが、今回もその続きである。 ただ、その前に、これまで亀山批判を行ってきた中で常に感じてきたことについて少し述べておこう。 私が大学や…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(7)

(承前) 亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で述べたマトリョーシャ=マゾヒスト説については、まず「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 」で、次に「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で批判した。その批判の根拠は「常識」…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

(承前) これから亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』を批判してゆくのだが、本当のことを言うと、こういうことはやりたくない。なぜか。それは、たとえば江川のラスコーリニコフ=666説にせよ、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説にせよ、それを批判するのは…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

(承前) ドストエフスキーを「ええかげん」に読むというのは、亀山のように無茶苦茶に読むということではない。そこには厳然としたルールがある。そのルールの範囲内で「ええかげん」に読め、ということだ。そして、繰り返しになるが、「自分の全存在をかけ…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。 「謎とき」とは何か。分かりきったことを…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

(承前) 「「謎とき」シリーズがダメな理由(5)」で述べたことだが、文学作品のテキストを創作ノートや同時代人の証言などを参考にしながら解釈するのは間違っている。作者の手紙を参考にするのもだめだ。なぜか。 それは自分で小説を書いてみればすぐ分…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

作品全体が美を定義する 江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んでいていつも思うのは、なぜ彼らはこんなに変なところばかり問題にするのかということだった。この疑問に対する答は「「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」(「死産児はいちばん大事な…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 前回掲げた学生用配布資料「スタヴローギンと「広い心」」はあくまで私の講義ノートの一部であり、じっさいの講義ではそのノートに対して口頭で補足を行いながら講義をすすめる。前回掲げた配付資料に欠けているのは、なぜスタヴローギンが善悪の区…

「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

「ラスコーリニコフ=666」説が無意味である理由 芸術作品を受容するときに私たちが取るべき態度は、森有正の次の言葉に尽きている。 どこでだったか、今ではすっかり忘れてしまったが、どこかフランス以外のところで、あるいはイタリアだったかもしれな…

「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

和洋折衷のコミックバンド すでに述べたように、小林秀雄のいう「「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンド」のひとつである江川・亀山コンビが読売文学賞を受賞した。これはそのコミックバンドが社会的に認められたということを意味する。誰が…

「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

死産児はいちばん大事なことを避ける 埴谷雄高、江川卓、亀山郁夫など死産児が書くドストエフスキー論の特徴は、いちばん大事なことをわざと避けるようにしている、ということだ。いや、これは脇から見ると、そう見えるというだけで、死産児当人は避けている…

「リアリティ」とは何か(2) 

すでに述べたように、拙論「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について」は補遺も合わせると9回連載した。といっても、各回ごとに内容が完結するように書いたので、「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」(ゴーゴリとワ…

「リアリティ」とは何か(1) 

またもや同じ文章を引用する。5月3日のブログの冒頭で、私は次のように書いた。 『ステパンチコヴォ村とその住人』を書いていた頃、ドストエフスキーは自尊心の病というものに強い関心をもっていた。しかし、自分がその病に憑かれていることに気づいていた…