『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(4)

使嗾もない
 前回、亀山はジラールのいう「模倣の欲望」=「父親殺し」という考えが理解できないまま『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書いていると述べた。このため、亀山は自分の出鱈目なジラール理解を『ドストエフスキー 父殺しの文学』で吹聴し続けているのである。そのひとつの例が「使嗾」だ。
 もう一度、亀山の『ドストエフスキー 父殺しの文学』の序文から引用しておこう。

 これから本書を読みすすめていく読者に対し、あらかじめ一つの点について注意をうながしておこう。本書のなかで私は、「父殺し」という表現とともに「使嗾(しそう)」という語をキーワードのようになんども用いることになる。「使嗾する」とは「他人を唆(そそのか)す」の意味であり、一般には「教唆(きょうさ)する」がより多く使われるようだが、本書では、あえて「使嗾」の語を用いることにした。「使嗾」という語がより微妙にはらむ「不確実性」のニュアンスを大事にしたいと考えたからである。ただし、本文中にはその認識をふまえたうえで両者を使い分けた部分もある。(亀山郁夫、『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.6-7)

 亀山は、「使嗾」という言葉を使って「教唆」あるいは「そそのかし」という言葉を使わないのは、「「使嗾」という語がより微妙にはらむ「不確実性」のニュアンスを大事にしたい」からだという。これもまた嘘だ。
 私の所有するどの国語辞典を見ても、「使嗾」=「教唆」あるいは「(指図による)そそのかし」という程度のことしか書かれていない。「使嗾」という言葉は、「教唆」あるいは「そそのかし」という言葉にはない「不確実性」のニュアンスをはらんだ言葉である、というようなことを書いた辞書などひとつもない。亀山はどんな辞書を見たのか。また、亀山は何を根拠にそう言うのか。
 そんな辞書などないし、亀山に根拠などあるはずがないのだ。あるのは、「使嗾」という言葉を使って読者を惑わそうとしている亀山の小ずるい計算だけだ。亀山はこう言いたいのだ。あなた方は知らないかもしれませんが、「使嗾」という言葉にはあなた方の知らないさまざまなニュアンスがあるのですよ。私がこれからそれを教えてあげますからね。
 亀山は何のために読者を惑わせるのか。それはもちろん亀山自身の模倣の欲望のためだ。亀山は自分を際だたせ、自尊心を満たしたいのだ。言い換えると、自分は「世界で初めて」使嗾という言葉を使ってドストエフスキーを論じた研究者だと吹聴したいのだ。
 しかし、残念ながら、亀山がそんな風に吹聴し続けるのは未来永劫にわたって赤恥をかき続けるということだ。だから、今すぐ、「使嗾」という言葉を使って書いたドストエフスキー論(たぶん亀山のドストエフスキー論すべて)を回収することだ。
 私がこう亀山に忠告するのは、亀山が『ドストエフスキー 父殺しの文学』で剽窃し続けているジラールがまったく逆のことを述べているからだ。ジラールによれば、使嗾とは、模倣の欲望に憑かれた主体がモデルに対して抱く幻想にすぎない。前回引用したジラールの文章を再度引用しよう。

 ベリンスキーが若い讃美者(ドストエフスキーのこと:萩原)に抱かせた感情は最初から分裂を助長するものだった。ドストエフスキーは国際主義者で、革命的かつ無神論的思想家の「養子」となって、父親の思い出を裏切るという印象をかならずもったに違いない。彼の父親がもしベリンスキーの思想に接していたなら、驚愕しただろう。この批評家の影響は息子の父親に対する有罪感を強めたのである。
 師が弟子に国民的、宗教的伝統すなわち父祖の伝統に、観念の内においてであっても、刃向かうように教唆するごとに、弟子には師があらたなる「父親殺し」をそそのかしていると思われた。帝政ロシアにおける全人民の父としての皇帝その人への一切の攻撃は、あるいはその攻撃を意図することだけでも、すでに冒涜的な性格を帯びていたので、ベリンスキーと「父親殺し」の連想はさらに強化される。(太字は萩原による)(『地下室の批評家』、pp.126-127)

 という風に、ジラールは述べているのだが、ジラールのいう「師が弟子に国民的、宗教的伝統すなわち父祖の伝統に、観念の内においてであっても、刃向かうように教唆するごとに、弟子には師があらたなる「父親殺し」をそそのかしていると思われた。」という言葉が模倣の欲望について述べているのは明らかだろう。
 ここでジラールは、主体であるドストエフスキーあるいは「弟子」がモデルであるベリンスキーあるいは「師」の欲望を横取りしようとしていると述べているのにすぎない。このとき、主体である「弟子」にとってモデルである「師」が自分を「そそのかしている」ように思われるのだ。
 なぜモデルである「師」が自分を「そそのかしている」ように思われるのか。それはもちろん、その「弟子」が自尊心の病に憑かれているからだ。自尊心の病に憑かれている「弟子」には、「師」による「そそのかし」が、「弟子」自身の模倣の欲望による幻想であるということが分からない。この「弟子」と同じことが亀山に起きているのだ。
 自尊心の病に憑かれた亀山には、使嗾が自尊心の病に憑かれた者が見る幻想にすぎないということが分からない。このため、彼は使嗾と模倣の欲望をまったく別のものと見る。
 たとえば、『悪霊』のスタヴローギンを「使嗾する神」と見る亀山は次のようにいう。

 作中人物の命名にこだわったドストエフスキーは、この『悪霊』でもじつに興味深い仕組みを披露しています。そもそもスタヴローギンという名前は、ギリシャ語で「十字架」を意味するスラヴロス(stauros)に由来しています。しかし、自分から「十字架」を名のる行為ほど冒涜的な行いはないでしょう。神の名を騙ること、神の地位をねらい、奪いとることが、主人公をもっとも魅了してやまない欲望であるなら、スタヴローギンの犯罪はつねに「神殺し」としての意味を帯びています。しかしその罪を、既存の法的規準をもって裁くことはできません。なぜなら、彼は法を超えているのですから。
 では、神の地位をうかがい、神の名を騙(かた)る悪魔にとって理想的な犯罪とは何でしょうか。そう、自分の手を汚すことなく実現できる犯罪、すなわち使嗾です。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、自分の手ににぎられた斧で老婆殺しを実行しました。しかし、『悪霊』の主人公は、人並みはずれた腕力を行使することはなく、「使嗾」という限りなくあいまいな行為の中に自分の姿を隠してしまうわけです。なぜなら、誇り高い彼の自尊心は、怒りにかられて犯罪を犯すといった人間に特有の「狭さ」に耐えられないからです。ドストエフスキーは、そうしたスタヴローギンの恐ろしいまでの傲慢さに、ピョートルが組織する秘密結社の呪わしい本質を見るのです。目的実現のために革命家たちが用いる手練手管は、神の不在を証明しようと本能の赴くままに行動するスタヴローギンの神秘劇の、きわめて卑俗な形態でしかありません。(以下略)(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(下)、pp.77-78)

 要するに、亀山によれば、スタヴローギンの使嗾によって、ピョートルは秘密結社を作り、革命を実現しようとしているのだ。しかし、亀山が『ドストエフスキー 父殺しの文学』で剽窃し続けているジラールドストエフスキー論には、これとはまったく逆のことが述べられている。つまり、ジラールによれば、スタヴローギンは誰をも使嗾しない、彼は周囲の人々がスタヴローギンに対して抱く模倣の欲望の「克服不可能な障害物[ライバル]」になっているだけだ。ジラールはこういう。

 スタヴローギンの〈とり憑かれた者たち〉に対する関係は、無礼な将校の地下室の主人公に対する関係にひとしい。人がみずから絶対者たろうと望むと、克服不可能な障害物[ライバル]が絶対者となる。スタヴローギンはそんな障害物である。あらゆる地下室的テーマと同様に、障害物のテーマは『悪霊』ではほぼ神話に近い次元を獲得する。スタヴローギンは決闘を承諾する、というよりも、彼によって父親を手ひどく辱められた男に銃の的となってやる。彼は銃弾の下でまったく平然としているので、相手は逆上し、狙いを定めることさえできない。地下室的世界を制御できるのは、常にこのように自己を支配することによってなのだ。(太字は萩原による)(『地下室の批評家』、p.107-108)

 スタヴローギンは「模倣の欲望」すなわち「悪霊」に「とり憑かれた者たち」にとって「克服不可能な障害物[ライバル]」となり、シモーヌ・ヴェイユのいう「道をふさぐ石」のように存在し続ける。ジラールドストエフスキー論には明らかにヴェイユの影響が感じられるが、ここもそのひとつだ。ヴェイユは次のようにいう。

 道をふさぐ石。その石にわが身をぶっつける。願望がある程度以上に強くなると、そんな石などもう存在するはずもないかのように。でなければ、自分の方が立ち去る。自分自身が存在しないかのように。
 願望には、いくらか絶対的なものが含まれている。そして、願望が(エネルギーがいったんつき果てて)挫折すると、この絶対的なものが障害物の上に移されるのだ。敗者、抑圧された人々の精神状態は、こうしたものだ。(シモーヌ・ヴェイユ、『重力と恩寵』、田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995、p.20)

 模倣の欲望は「克服不可能な障害物[ライバル]」にぶつかると、その障害物を絶対者に祭り上げる。その障害物が「神」になるのだ。ジラールは、このような事態をサルトルの「対他存在」という言葉を使って説明している。

 スタヴローギンの〈とり憑かれた者たち〉に対する関係は、女が恋する男に、ライバルが嫉妬する男に、ルーレットが賭博者に、ヘーゲルがすでに「神性の生ける化身」と見なしていたナポレオンがラスコーリニコフに、それぞれ対する関係にひとしい。スタヴローギンはそれ以前のあらゆる地下室的な関係の総合なのだ。この小説家は何もつけ加えないし、削除しない。彼が発揮する厳密さは、一連の現象全体から本質あるいは原因を抽出する現象学派の哲学者の厳密さである。彼は解釈しているのではない。それらの現象の深い同一性を明らかにし、無数のまとまりがつかない仮説をただ一つの衝撃的な明証に変えるのは、それらの現象の比較作業なのだ。
 神に反逆し、自分自身を崇拝しようとする人間は最終的にはかならず〈他者〉、すなわちスタヴローギンを崇拝する。基本的にだが、深い直観によって、『罪と罰』が開始した地下室の心理学を形而上学的に乗り越える作業が完成する。ラスコーリニコフは本質的には自分が殺害した神の地位に就くことに成功しなかった人間であるが、彼の挫折の意味はまだ隠されたままだった。『悪霊』が解明するのは、その意味である。スタヴローギンはもちろん「即自的存在」としての神(それ自身において神である神:萩原)ではないし、「対自」(自分が神だということを自覚している神:萩原)としてさえそうではない。〈とり憑かれた者たち〉が全員一致して捧げる敬意は奴隷の敬意であって、その敬意にはそれ自体では何の価値もないのだ。スタヴローギンは「対他存在として」の神(他者にとっての神:萩原)なのである。
 ドストエフスキーは哲学者ではなく、小説家である。彼はあらゆる地下室的な現象の一貫性を知的にはっきりと意識したから、スタヴローギンという人物を創造するのではない。その反対に彼はスタヴローギンという人物を創造したから、この一貫性に到達するのだ。地下室の心理学にはひとりでによりいっそう安定した、厳密な構造へ向かう傾向がある。支配は支配を引き寄せ、隷属は隷属を引き寄せる。支配者は欲望しないので、自分の周囲に奴隷しか見出さない。そして奴隷にしか出会わないので、欲望できない。地下室の心理学はこの抗しがたい論理によって、形而上学に到達する。(太字は萩原による)(『地下室の批評家』、p.107-108)

 要するに、ジラールによれば、ラスコーリニコフにおいては未完成に終わった「神の殺害」(ナポレオンのように神となって人類の上に君臨すること)は、スタヴローギンにおいて「形而上学的」に乗り越えられ、完成する。ここでジラールのいう「形而上学的」という言葉を「観念的」あるいは「心理的」と言っても同じことだろう。スタヴローギンは現実にはナポレオンのような人物にはなれなかったが、周囲の人間にとって、心理的にナポレオンのような人物になったのだ。
 もちろん、スタヴローギンは自らの意思でナポレオンのような人物、つまり、神になろうとしたのではない。彼は周囲の人々の模倣の欲望によって神に祭り上げられただけだ。。
 だから、亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で、スタヴローギンを「神になりたかった男」と名づけたのは間違っている。もちろん、亀山がどうしてもそう名づけたいのであれば、ジラールの模倣の欲望論を論破すれば済むことだ。しかし、亀山はそんなことはしていない。それどころか、『ドストエフスキー 父殺しの文学』などで、ジラール理論を堂々と、あるいは、こっそり使い続けている。そんな無節操な振る舞いができるのも、これまで繰り返し述べてきたように、亀山がジラールのいう模倣の欲望というものをまったく理解していないからだ。理解しているのなら、自分の書いたドストエフスキー論をすべて回収していただろう。