大岡昇平とドストエフスキー

 新しい『ドストエーフスキイ広場 No.19』が送られてきたので、見ると、巻頭に福井勝也の「大岡昇平ドストエフスキー──『野火』を中心に」という論文が載っている。巻頭に掲げられるということは同人諸氏から高く評価された論文ということだろうか。しかし、それにしても、大岡昇平ドストエフスキーとは変な取り合わせだな、と思った。
 というのも、大岡はスタンダリアンでドストエフスキーは嫌いだったはずだと思ったからだ。私の記憶では、大岡がドストエフスキーに言及するときは必ず、否定的なニュアンスをともなっていたはずだ。そして、そのような態度は、大岡の師匠の小林秀雄に対する憎しみによって増幅されていたように思う。つまり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という気味があったのではないか。
 このブログでもすこし触れたが、大岡はそれまで尊敬していた小林秀雄が米国との開戦に諸手をあげて賛成したことに衝撃を受けた。その小林はドストエフスキーをきわめて高く評価していて、若い大岡にドストエフスキーの素晴らしさについて吹き込んでいた。
 ちなみに、私自身、十代後半の乱読時代にスタンダール大岡昇平を愛読した。さらに、のちに中原中也論を書いたときも、大岡の中也論を精読した。また最近、大岡の戦争文学、特に『レイテ戦記』などを改めて読み返している。いずれにせよ、私の感触では、スタンダリアンであった大岡と天皇主義者であった小林秀雄は水と油だ。また、大岡とドストエフスキーも肌が合わない。その大岡とドストエフスキーを結びつけるとは、どういう了見か、と思って読んでみた。
 結論から先に言えば、私はこの論文に福井の亀山郁夫の書いたマトリョーシャ論に対する賛辞と同質のものを感じた。
 福井は論文を大岡昇平埴谷雄高との対談(『大岡昇平埴谷雄高 二つの同時代史』)を引用することから始める。

「ぼくは岩波版「大岡昇平集」で『野火』の解説を書いたけれども、そのときはあえて『野火』論だけに限定してやったんだ。しかしほんとうに大岡昇平をやるとすれば、評論家が常に『死の家の記録』からドストエフスキー論を始めるごとく『俘虜記』を徹底的にやるべきだろうと思うね。あそこに『野火』の原型もある。」(埴谷)
「そうだ。まあ、おれはサラリーマンのこすからい智慧を持ちながら、『パルムの僧院』のファブリスの無垢を理想型にしたまんま戦争に行った。それを農民出の兵隊の中に見出した。ところがその兵隊とおれは話の種がなかった。俘虜病院にいる間だけどね。そこでやけになって、俘虜収容所全体を反無垢の戯画に描いたんだ。そしたら結局無垢、小児性が残っちゃった。それを『野火』で追っかけってみたってとこかね、自己解説すると。」(大岡)

 そして、福井は続けて次のようにいう。

 この対談では、大岡が『俘虜記』を書くうえでのドストエフスキー文学、とりわけ『死の家の記録』の意味とその影響が主に指摘されている。このことは、明治期以降のドストエフスキー文学受容の成果として見逃せない文学史的事実である。

 これを読んで私は心底驚いた。
 埴谷は「ほんとうに大岡昇平をやるとすれば、評論家が常に『死の家の記録』からドストエフスキー論を始めるごとく『俘虜記』を徹底的にやるべきだろうと思うね。」と述べているだけだ。言うも愚かなことながら、埴谷はドストエフスキーの『死の家の記録』に当たる作品が、大岡にとっては『俘虜記』だと述べているだけだ。これ以外の読み方が可能だろうか。福井によれば可能なのである。
 つまり、先の福井の文に明らかなように、福井によれば、ここで埴谷は、大岡が『俘虜記』を書くさいドストエフスキーから影響を受けながら書いている、と述べていることになる。
 これは福井の亀山に対する先の賛辞とまったく同じ構造をもつ。つまり、福井は自分の理屈を通すために、書いてある事実をひん曲げて読み、そして、大風呂敷を広げるという構造だ。そして、この大風呂敷は木下豊房らに対する反論でも繰り返される。福井は木下豊房や冷牟田幸子の亀山批判にまったく耳を傾けようとはしない。私は木下豊房や冷牟田幸子が本来不必要なはずの論証を忍耐強く行っていることに同情する。同時に、彼らのその忍耐強さに敬意を覚える。一方、ここまで論証されてもがんとして納得しない福井勝也に気味悪さを感じる。
 さて、以上のようなことを述べながら、福井は本論に入ってゆくのだが、途中で柄谷行人の『野火』評などを引用する。私見によれば、ここは柄谷がスタンダリアンである大岡を自己流に説明し直しているだけだ。柄谷が言うように、「(大岡)氏の硬質で明確そのものを期した文体は、ある意味では「文学」に対する報復行為に他ならないのである。」。これは大岡の小説を知る者にとってはいたって常識的なことで、これがなぜ大岡とドストエフスキーを結びつけようとしている論文で引用されなければならないのか。その理由がさっぱり分からない。柄谷はお飾りなのか。
 以下、順次批判してゆこうと思ったが、もうその気力は残っていない。なぜなら、福井勝也がこの論文で何を言いたいのかがさっぱり分からないからだ。一知半解な言葉の羅列だ。特に、彼がそのあとドストエフスキーをめぐって述べている言葉はほとんど分からない。たとえば、福井は「『罪と罰』におけるラスコーリニコフは、シベリアの流刑された後も基本的に自分の罪を悔い改めていない。」(p.13)という。では、どうしてドストエフスキーラスコーリニコフのシベリアでの回心を描いているのだ。ドストエフスキーは馬鹿なのか。その理由を示してほしい。こんな学生のレポート以下の論文は没にすべきだった。

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 読み直してみて、怒りすぎではないかと反省した。しかし、なぜ福井は一知半解な言葉ばかり並べるのか。これでは学生のレポート以下だ。少なくとも学生は分からないことは分からないと書く。福井はどうして自分の腹に沁みていることだけを自分の言葉で書かないのか。私は虚栄の言葉は聞きたくない。だから怒っているのだ。

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 語句を訂正した。
 アランによる「怒り」(COLÈRE)の定義。

 「怒りは恐怖[Peur]の一つの結果として自然に生まれる抵抗と工夫とのいろいろな力の、展覧のようなものである。それゆえに、小心な[:TIMIDITÉ]人々はしばしば滑稽な怒りを見せる。それは、怒りのいちばん低い段階である。それは恐怖につづいて起る反射作用[RÉFLEXE]をそれほど出ないものである。しかしそれにはいつも、恐怖から来る大なり小なりの屈辱感と、制御不能で忍耐に欠ける[impatient:PATIENCE]勇気[COURAGE]の表現を増大させる一種の喜劇とが結びつく。さらにそれに、怒りが人の欲する程度以上に増大するとき、奴隷であるというかんしゃく[FUREUR]および一種の自己恐怖が加わり、それらはしばしば怒りを途方もない点までたかぶらせるのである。そういうとき、怒りを鎮めるためには疲労しかない。」(アラン、『定義集』、森有正訳、みすず書房、1988、p.44、[ ]内のフランス語は森による注であるが、その注の意味については訳本を見てほしい。)

 たしかに、「小心な[:TIMIDITÉ]」私は福井の論文を読んで「恐怖[Peur]」を感じた。これは亀山のドストエフスキー論や翻訳を読んだときも同じだった。そこにはつねに「恐怖から来る大なり小なりの屈辱感」があり、そこに「制御不能で忍耐に欠ける[impatient:PATIENCE]勇気[COURAGE]の表現を増大させる一種の喜劇」が結びついていた。アランのいう「勇気[COURAGE]の表現を増大させる一種の喜劇」とは、私が「福井や亀山なんか怖くないぞ」というような喜劇を演じることだ。そして、私のその怒りが「奴隷であるというかんしゃく[FUREUR]および一種の自己恐怖」に達していることも確かだ。すなわち、私は福井や亀山の奴隷になっていて、そのような自分に恐怖を覚えるのだ。アランが言うように、この怒りは、私が福井や亀山に対して怒り狂い、疲労困憊するまで治まることがないのか。(5月1日10時)