シニフィエはどこにもない

「自尊心の病」という言葉について

ドストエフスキーが『スチェパンチコヴォ村とその住人』で使っている「偽りの自尊心」という言葉を、わたしが「自尊心の病」という言葉に言い換えて使い始めたのは、『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(p.26)でも述べたように、1995…

当ブログの題名の由来

「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮れ」 (私訳:もはやこの世には何の用もないと思い定めた私なのに、秋の夕暮れ、鴫が水辺から飛びたつのを見ていると、今更ながらこの世のはかなさが身に沁みる)。

このブログを始めた理由

なぜこのブログを始めたのか。その理由についてはすでに2013年10月2日の記事で説明している。しかし、今では他の記事に埋もれて読みにくくなっているので、それを複写し、ブログの最初の部分に掲げておこう。最近は日記帳や忘備録みたいになっているこのブロ…

初心忘るべからず

「初心忘るべからず」という言葉があるが、私にとって「初心」とは、離人症(私の場合は離人神経症)から回復したときの感覚だ。離人症に30歳すぎになった。自尊心の病の果てになった病だった。その数年後に見た離人症から回復したときの風景については何…

渡辺謙の演技論

さっきテレビを点けると、NHKテレビで俳優の渡辺謙が大河ドラマの「独眼竜政宗」を演じたときの経験を語っていた。要するに、そのドラマを演じているとき彼に分かったのは、伊達政宗という歴史的な人物の一生を見渡しながら、ここはこう演技すべきであると計…

小林秀雄の社会学批判

先日、寝転がって、以前読んだことある小林秀雄と江藤淳の対談(『歴史について』、文春文庫、1978、pp.9-75)を読み始めたら、わたしが先のブログ、つまり、「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いたことと同じことを小林が述べてい…

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」のリンクを張って欲しいというリクエストがありましたので、リンクを張りました。しかし、スマホでこのリンク先を見ようとしても、なぜか、見ることができません。ご覧になりたい方は、パソコンでご…

野見山暁治

年とともに本の読み方が変わってきた。 本から透けて見える著者の人間を読むようになった。 下らないやつが書いた本は、いくら巧みに述べられていても、下らない。下らないから、そういう本を書いたやつは下らないと分かる。そして、その本を読むのがイヤに…

ジャニー喜多川と黒柳徹子

昨夜、テレビをつけたら、偶然、市川崑が監督した映画『犬神家の一族』をやっていた。面白いので、ずるずる最後まで見てしまった。わたしはホラー映画や怪談を扱った映画が大好きなのである。 その『犬神家の一族』をずるずる最後まで見てしまったのは、わた…

叫びとささやき

ツタヤでベルイマンの『叫びとささやき』を借りてきて、初めて見た。わたしが学生の頃、評判になった映画だった。学生の頃に見ても、何も分からなかっただろうと思う。自尊心の病に憑かれた人間に、この映画は分からない。彼らに愛は分からない。彼らは自分…

怪物

久しぶりに映画館に行って映画を見た。「怪物」という映画でした。面白かった。偶然なのだろうが、いつもドストエフスキー講座でわたしが述べている「物語の暴力」と「シニフィエはどこにもない」ということをテーマにした映画だった。

野いちご

ベルイマンの映画『野いちご』で、主人公の老教授イサクは或る詩を口ずさみはじめるが、途中で詩の文句を忘れる。すると、彼を囲んでいた行きずりの若者たちがその詩を続ける。その詩は或る人のブログ(https://yojiseki.exblog.jp/11966306/)によれば、こ…

川端香男里と伊藤淑子

近々、ドストエフスキー入門書みたいなものを出すので、贈呈したい人の住所を調べていたら、亡くなっている人が多いので驚いた。浦島太郎になったような気分だ。自分では気がつかなかったが、妻の看病に明け暮れするようになって以来、人交わりをする余裕を…

ドストエフスキーが分からなかった頃

わたしはドストエフスキーを分かりたいと思い、神戸の外国語大学に入ったのだが、いくらたってもドストエフスキーが分からなかった。しかし、三十過ぎに離人症になったあと、分かるようになった。この「十字路で」という文章はその三十過ぎの頃を書いた文章…

亀山郁夫に会った

妻が亡くなったあと、何もする気になれず、居間のソファにぼんやり座ったままテレビを眺めている日々が続いた。夜も眠れず、身体のあちこちが痛い。とくに胃が痛い。それで医者に行って、いろいろ調べたが、どこも悪くない。そこで、医者に、妻を亡くして云…

「サウルの息子」

きのう四条の「京都シネマ」で、ネメシュ・ラースローの「サウルの息子」というハンガリーの映画を見た。 平凡な感想かもしれないが、私たちが生命(いのち)に出会うためには、どれほど生命ではないものをおびただしく経験しなければならないのかということ…

暴論あるいは正論?

前回、年を取ってくると、抽象的な理屈が空しくなると述べた。しかし、それは若いころから分かっていたはずのことで、それはどういうことなのか、じっくり考えるべき事柄のひとつであったはずだ。 でも、若いころは知識が不足しているので、知識を増やすため…

なぜ書くのか

わたしはなぜものを書くのか。これはものを書きはじめた頃からいつも自分に向けてきた疑問だった。それが何であれ、小説であれ論文であれ、ものを書くときにはいつも自分に「自分はなぜこれを書いているのか」と問いかけてきた。わたしにとって書くとは、な…

十字路で

何年かに一回ぐらい思い出す顔がある。と言っても、なつかしい顔ではない。昔、ある町の十字路で見かけた男の顔だ。十字路と言っても、車が行き交うような十字路ではない。坂の多いその町の、坂を登り切ったところにあった狭い十字路のことだ。車がようやく…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。 「謎とき」とは何か。分かりきったことを…

あなたはなぜ這っているのか、 こんな日に。 全身をまるでアコーディオンのように、 ふくらませながら。 なるほど雨は滝のように降りそそいでいる、 あなたのそのあわてふためいた背中に。 あなたは固いアスファルトにとまどっているのか。 わたしにはあなた…

みすず書房へのメール

次に私が2008年2月初めにみすず書房に送ったメールを一部省略して載せる。今読めば、ここで私が自分をキリスト教徒ではないと述べているのは不正確。私はシモーヌ・ヴェイユがキリスト教徒にならなかったのと同じ意味でキリスト教徒ではないということだ。な…

村を過ぎる

親父が死んだのは夕方だった。 こういう場合、私の田舎では普通、遺体を棺桶に入れ、病院からいったん自宅に戻す。そして、翌日、自宅あるいは葬儀場で通夜を行い、その翌日葬式という段取りになる。病院で夕方に亡くなると、その日通夜ができないので、葬儀…

ロシアのゴーゴリという作家に『鼻』という作品がある。うっかり客の鼻をそり落としてしまった床屋が、その鼻を捨てようとペテルブルグの町をウロウロする。最近読み返していないので、うろ覚えだが、鼻をチリ紙みたいなものに包んでそっと道に投げ捨てる。…