『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(5)

自分の物は自分の物、他人の物も自分の物
 これまで述べてきたことから、亀山が自分のドストエフスキー論の「出発点」にしているフロイトの「父殺し」のシナリオが、ドストエフスキー論では成り立たないことが明らかになった。それにも拘わらず、亀山は『ドストエフスキー 父殺しの文学』でも、また、その後のドストエフスキー論でも、ドストエフスキーの文学は「父殺し」の文学だと繰り返し述べている。すでに紹介した朝日新聞(2010/5/20/夕刊)の記事(映画の少女に恋をした.jpg 直)もこのような発言の延長上にある。どうせ本を売るための嘘だろうが、ドストエフスキーの文学=「父殺し」の文学、というのは、亀山の「原体験」なのである。
 なるほど、亀山がそう思うのは自由だ。しかし、そう思うのなら、なぜそう思うのかの根拠を示さなければならない。これまで述べてきたように、ジラールは、ドストエフスキーの文学は「父殺し」の文学ではない、と述べている。また、それがジラールドストエフスキー論の要だった。ドストエフスキーの文学=「父殺し」の文学、ということになれば、ジラール理論は崩壊する。一方、ドストエフスキーの文学≠「父殺し」の文学、ということになれば、フロイトドストエフスキー論は崩壊する。
 フロイトドストエフスキー論とジラールのそれは相互排除的であり、そのいずれをも用いてドストエフスキー論を展開することはできない。それなのに亀山はフロイトジラールドストエフスキー論の両方を使ってドストエフスキー論を展開している。これがいかに無責任かということは誰の目にも明らかなはずだ。
 こんなことになるのは、何度でも言うが、亀山が自尊心の病に憑かれているからだ。
 要するに、亀山にとっては、フロイトジラールドストエフスキー論などどうでもいいのだ。だから、議論の整合性などどうでもいいのだ。亀山にとってもっとも重要なのは自分なのであり、自分を世間に目立たせることだけだ。フロイトジラールドストエフスキー論は亀山を目立たせる飾りにすぎない。
 ところで、私たちは通常、亀山のような自分の自尊心に気づいていない者に近づくのを避ける。なぜなら、亀山のような模倣の欲望に憑かれた人物のモットーは「自分の物は自分の物、他人の物も自分の物」であるからだ。
 なぜそうなるのか。これも繰り返しになるが、この批判の2回目で述べたように、ジラールによれば、フロイトエディプス・コンプレックスだと思っている現象は、ドストエフスキーがその小説の中で繰り返し描いている「無意識的模倣(ミメティスム)」あるいは「模倣の欲望」にすぎない。そして、このような無意識的模倣に囚われている者は、自分の自尊心に気づいていない、というより、自分の自尊心に気づいていないので無意識的模倣に囚われる。このため彼らは無意識のうちに「自分の物は自分の物、他人の物も自分の物」という風に振る舞う。要するに、自分の目の前に現れる物が自分の気に入った物なら、それが何であれ、すべて横取りする。
 従って、たとえば、そんな人物のいる研究会に入って、うっかり持論を言おうものなら、すぐアイデアを横取りされ、いつのまにか、そのアイデアはその人物のものになっている。だから、そんな人物のいる研究会で持論を展開してはいけない。展開するときは、前もって持論を活字化するかブログなどで公開しておかなければならない。そうすれば、ある程度、その人物の模倣の欲望は抑制される。
 しかし、亀山クラスの常軌を逸した模倣の欲望者になると、そんなことをしても無駄だ。公開した持論も模倣され、あたかも亀山自身の考えであるかのように吹聴されてしまう。また、それが世間の人があまり知らない領域であれば、模倣に気がつく人も少ないので、犯罪はうやむやになる。
 ドストエフスキー研究も多くの一般の人が知っている研究領域とは言えない。しかし、幸運なことに、ドストエフスキーの作品はすべて翻訳されていて、愛読者も多い。このため、亀山が誰のドストエフスキー論のどの部分を模倣しているのかということについて私が説明すれば、ある程度分かってもらえるだろう。次回から、亀山がジラールをどんな風に模倣しているのかを見てゆこう。