フロイト・ラカン批判

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」のリンクを張って欲しいというリクエストがありましたので、リンクを張りました。しかし、スマホでこのリンク先を見ようとしても、なぜか、見ることができません。ご覧になりたい方は、パソコンでご…

平和ボケと超自我

きのうの終戦記念日、朝日新聞に安倍首相の「戦後70年の安倍談話(全文)」が、日本政府の英訳付きで掲載された。そして、そのちょうど裏がわの紙に、岩波書店による「戦後七〇年 憲法九条を本当に実行する 柄谷行人」という全面広告が印刷されていた。そ…

文学とは何か

文学とは何か。それは概念で述べる物語(社会学、政治学、経済学など)に抵抗しながら、人間をありのままに捉えようとする言葉によって物語を作ろうとする働きのことだ。 たとえば、誰それはマルクスの何とかいう理論を知らないまま、ああいうことを言ってい…

くたばれ、フロイト、ラカン!

昨夜、テレビをつけると、偶然、『沖縄 うりずんの雨』を撮ったジャン・ユンカーマン監督が沖縄のことを話していた(BS-TBS「週刊報道LIFE」:2015/5/10/pm.21:00-22:00)。要するに、現在、沖縄といわゆる「本土」の関係が悪化しているのは、「本土」の人間…

反精神分析

最近、朝日新聞に連載されていた「人生の贈りもの わたしの半生」シリーズで上野千鶴子氏が記者の質問に次のように答えていた。 ――家族や生い立ちについては一切答えない、としていた時期もあったそうですね。 子ども時代のことを聞くインタビュアーって、育…

ラニョー

「優等生の愚かさ」で述べたように、優等生というものは自分の頭で考えようとはしない。それは、自分の頭で考えていると効率が悪いからだ。効率が悪いとはどういうことか。 それは、正しいかどうか分からないが、ともかく、先生が正しいと言っているのだから…

優等生の愚かさ

すでに「非暴力を実現するために」で述べたことだが、私は小学校に入って、先生のいう「1+1=2」の意味が分からず、ひどく苦しんだ。また質問しても答えてくれる先生もいなかった。先生は呆然とするだけだった。このため、そういう先生に教えてもらう学…

暴論あるいは正論?

前回、年を取ってくると、抽象的な理屈が空しくなると述べた。しかし、それは若いころから分かっていたはずのことで、それはどういうことなのか、じっくり考えるべき事柄のひとつであったはずだ。 でも、若いころは知識が不足しているので、知識を増やすため…

ドストエフスキーと似非科学(2)

人間の生は一回性しかもたない。従って、フロイトのように、人間の生、とくに心をあたかも機械のようにあつかうのが間違いであることは明らかだ。それはそうなのだが、フロイト理論がすべて間違いかと言えば、そうとも言えないところがある。たとえば、私た…

ドストエフスキーと似非科学(1)

すでに述べたことだが、いまだに似非科学を用いてドストエフスキーの作品を論じる人があとをたたないので、今一度述べておこう。 科学と似非(えせ)科学は、再現性があるかないかで区別がつく。たとえば、最近話題になっているSTAP現象やSTAP現象で生成され…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)

フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない これまでジラールによるフロイト批判を紹介してきたが、ジラールのフロイト批判にも拘わらず、フロイト理論やフロイト理論から派生したラカン理論を信奉する人は多い。そんなことになっているのは、フロ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(8)

亀山はなぜジラール理論を使ったのか さて、これまでの批判によって最初の約束を果たすことができたと思う。この批判の第一回目で私は次のように述べた。 先に引用した亀山の序文に明らかなように、亀山はこれからフロイトの「父殺し」の理論、つまり、エデ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(7)

すべては模倣の欲望から始まる 前回の最後に紹介したジラール理論のお粗末な「要約」のあと、亀山は次のようにいう。 しかし、じつは私がここに見るのも、シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波です。分身のモチーフが、ドイツ・ロマン主義の作家ホ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(2)

エディプス・コンプレックスなどない 亀山郁夫の文章の特徴は、つかみどころがないことだ。それは亀山が適当な思いつきに嘘をまぶしながら、連想ゲームのように次から次へと妄想を展開してゆくからだ。このため、読者が「変だな」と思っても、もう話題は別の…