『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(1) 

はじめに

 亀山郁夫は『ドストエフスキー 父殺しの文学』(全二巻、日本放送出版協会、2004)の序文で次のようにいう。

 本書は、ドストエフスキー文学における最大の謎とされる「父殺し」の主題を扱っている。しかし「父殺し」における「父」とは、作家の父ミハイル・ドストエフスキーを意味するにとどまらない。それどころか、絶大な皇帝権力のもとに生きるロシア知識人、いやロシア社会全体を包みこむ主題だったと述べても少しも過言ではない。議論の出発点になるのは、オーストリア精神分析学者ジークムント・フロイトが著した「ドストエフスキーと父殺し」だが、本書に託したねらいは、その紹介にも応用にもなく、むしろフロイトからどれほど自由に、そして遠くまで行けるか、つまり冒険できるかという点につきる。 これから本書を読みすすめていく読者に対し、あらかじめ一つの点について注意をうながしておこう。本書のなかで私は、「父殺し」という表現とともに「使嗾(しそう)」という語をキーワードのようになんども用いることになる。「使嗾する」とは「他人を唆(そそのか)す」の意味であり、一般には「教唆(きょうさ)する」がより多く使われるようだが、本書では、あえて「使嗾」の語を用いることにした。「使嗾」という語がより微妙にはらむ「不確実性」のニュアンスを大事にしたいと考えたからである。ただし、本文中にはそ、その認識をふまえたうえで両者を使い分けた部分もある。(亀山郁夫、『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.6-7)

 これまで見てきたことから明らかなように、亀山は平気で嘘をつくことができる人間なのだが、『ドストエフスキー 父殺しの文学』も嘘から始まる。
 その嘘とは、「ドストエフスキー文学における最大の謎」が「「父殺し」の主題」だということだ。ドストエフスキーの小説をほとんど読んでいない人は、いきなりこんなことを言われると、「へえ、そうなのか」と感心してしまうかもしれない。また、亀山が朝日新聞大佛次郎賞の受賞者であり、東京外語の有名教授であり、かつてNHKロシア語講座の講師をしていたことがあり・・・というようなことを知っている読者が同時に権威主義者であり、ほとんどドストエフスキーを読んだことがないとすれば、亀山の嘘を簡単に信じてしまうだろう。
 私は権威主義者でもないし、ドストエフスキーを繰り返し読んできた人間でもあるので、もちろん、「ドストエフスキー文学における最大の謎」が「「父殺し」の主題」だとは思わない。それが亀山の嘘だということはすぐ分かる。だから、私にとって、そんな嘘から始まる『ドストエフスキー 父殺しの文学』はさっさとドブに放り込むべき代物なのだが、ここであっさりドブに放り込んでしまっては、ドストエフスキー研究者として私は失格だ。なぜそれが嘘であるのかを、ドストエフスキーをほとんど読んだことのない読者に説明しなければならない。なぜなら、『ドストエフスキー 父殺しの文学』を有り難いドストエフスキー入門書だと思って読む者がいるかもしれないからだ。
 もちろん、これまでの私の文章を読んできた人にとって、亀山が嘘つきだということは自明の事柄だろう。誰にも分かることだが、嘘つきが急に真人間になることはない。嘘つきとはいつでも嘘をつくから嘘つきなのである。亀山の言動はすべて嘘に彩られている。従って、亀山の書くものは、新聞のコラムなど断簡零墨も含めて、すべて嘘だと思って間違いはない。
 しかし、たとえ亀山が嘘つきであっても、何かの拍子に真実を述べることもあるかもしれない、と、主張する人がいるかもしれない。なるほど「嘘から出た誠」という言葉もある。だから、亀山が嘘つきだというのは事実だとしても、「ドストエフスキー文学における最大の謎」が「「父殺し」の主題」だという亀山の言葉が嘘だとはかぎらないということになる。だから、私はそれが嘘である理由をドストエフスキーをほとんど知らない人に説明しなければならない。しかし、正直に言えば、ドストエフスキーをほとんど知らない人に亀山のその嘘を説明するのはむつかしい。うまく説明できるかどうかは分からない。しかし、ともかくやってみよう。
 先に引用した亀山の序文に明らかなように、亀山はこれからフロイトの「父殺し」の理論、つまり、エディプス・コンプレックスの理論、さらに、亀山の手になる「使嗾」の理論を使ってドストエフスキー論を展開してゆくと述べている。そこで、私も、エディプス・コンプレックスの理論をドストエフスキーの小説全体に適用するのは間違っているということについて説明しながら、同時に、亀山の「使嗾」の理論についてもそれが愚かな妄想にすぎないということも明らかにしてみよう。

エディプス・コンプレックスについて

 亀山は次のように、自分がなぜフロイトの理論を用いるのかを説明しながら、作田啓一の言葉を引用する。

 今日、フロイトおよびフロイト派の研究者の見解に対して、否定的な立場をとる研究者は少なくないのだが、六十年におよんだドストエフスキーの生涯が、「エディプス・コンプレックス」の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。また、作家を生涯にわたって苦しめた癲癇の発作が、しばしば父親の死をめぐるトピックや事件と結びついて生じている事実も見のがしがたい。社会学者の作田啓一は『カラマーゾフの兄弟』における父子関係を例に挙げ、次のように書いている。「フロイトの理論枠組を避けて通る側のほうに、むしろ弁解の義務が課せられる」と。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、pp.34-35)

 作田啓一の言葉をこんな風に断片的に引用するのは間違っている。これは亀山がいつも行っているペテンだ。と言っても、分からない人の方が多いだろう。作田の本を読む人は少ないだろうということを見越して亀山はこのような嘘を述べているのだが、亀山の嘘がいかに悪質なものであるかを理解するため、長くなるが、作田の本から引用してみよう。

 こうして、フョードルに対し、スメルジャコフを含めて三人の息子が殺意をいだき、殺害が行われる。財と女の独占によって息子たちの欲望を抑えつけてきたフョードルが彼らによって殺されるという父子関係は、容易にS.フロイトの『トーテムとタブー』の主題を想起させる。フロイトによれば、人類の原初の群族は一つの大家族であり、その家父長は群族内のすべての財と女を独占していた。欲望を抑えつけられてきた息子たちは共同して反乱を起し、原父を殺害する。殺害したあと、息子たちは罪責感とともに父親に愛情を感じるにいたる。生前の父への態度から死後の父への態度の変化を説明するためには、フロイト自身の言葉を借りるのが適切であろう。「彼ら[息子たち]は自分の権力欲と性的要求の大きな障害となっている父親を憎んだのであるが、彼らはまたその父親を愛し、讃美もしていたのである。彼らは父親を片づけて憎悪を満足させ、父親と一体化しようという願望を実現してしまうと、いままでおさえていた愛情が頭をもたげてきたにちがいない。これは悔恨という形をとって現われ、また共通に感じられている悔恨に照応する罪意識が生じたのである。こうして死んだ父親は生きていたときよりも強くなってしまう。(西田越郎訳「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・文化・芸術論』人文書院、二六六ー六七ページ)。罪に伴う悔恨と父への愛着が亡父を神格化し、以後、亡父は神となる。一方、兄弟たちはみずからの犯した罪とその罪の原因となった性的行為との再発を防止するため、殺人の禁止と近親相姦の禁止という、ふたつのタブーを設けた。こうして、父の個人的恣意の支配する社会から非人格的な掟の支配する兄弟中心の社会への転換が起こった。 現在の文脈にかかわるかぎりでのフロイトの理論を要約すれば、右の通りである。彼の言う原父殺害を、人類進化の特定の時点で現実に起こった事実と見なす人は、よほど頑固なフロイト主義者だけであろう。私としては、原父殺害とその結果のシナリオを、アルカイックな人間社会で起こった変動を理解するための一つの仮構、いわゆる索出的(ホイリスティッシュ)な仮説とみなす立場を選びたい。この種の仮説の他の例としてJ‐J・ルソーが『人間不平等起源論』において自覚的に提起した仮説を挙げることができる。フロイトの『トーテムとタブー』の場合にはこの自覚がないので、テキストの解釈者のあいだに混乱を惹き起こした。しかし、ここではフロイトを批判したり擁護したりするつもりはない。私としては、彼の描いたシナリオを事実の位相からシンボルの位相へと昇格させればよい、と提案するだけで十分である。
 専制的な家父長フョードル・カラマーゾフの息子たちによる殺害はただちにフロイトの父親殺しの理論を想起させるので、西洋の批評家たちのあいだでは、当然のことながら、『カラマーゾフの兄弟』を『トーテムとタブー』の枠組を通して解釈する人が多い。フロイト自身も自分の理論を適用しうる絶好の作家としてドストエフスキーを取り上げている(「ドストエフスキーと父親殺し」右同書)。一方、日本の批評家たちのあいだではフロイトなどの精神分析の理論に言及することは、最近ようやく大目に見られるようになったばかりである。それは、日本では作品の外にある理論枠組を文学作品に適用することが、その作品の神聖さを傷つけるという感じ方(丸山真男のいう「実感信仰」)、文学研究の専門性を保持したいという文学研究者のセクショナリズム、そしてフロイト主義に対する日本人に一般的な反発に由来している。しかし、『カラマーゾフの兄弟』の中の父親‐息子関係は、息子たちによる原父殺害のシナリオと重なる部分が大きいので、フロイトの理論枠組を避けて通る側のほうに、むしろ弁解の義務が課せられる。そこで、フロイトの枠組が『カラマーゾフの兄弟』にどの程度役立つか、またどの程度役立たないかを検討することから始めよう。(作田啓一、『ドストエフスキーの世界』、筑摩書房、1988、pp.329-331)

 このように、作田の「フロイトの理論枠組を避けて通る側のほうに、むしろ弁解の義務が課せられる」という言葉は、日本のドストエフスキー研究者に向けられているのにすぎない。つまり、文学の専門性を保持したいという彼らの「セクショナリズム」や、丸山真男が『日本の思想』でいう文学者一般における「実感信仰」を作田は批判しているだけなのであり、『カラマーゾフの兄弟』を論じるには何が何でもフロイトの理論枠組を用いなければならないと述べているわけではない。亀山は作田の言葉の一部だけ引用しながら読者を欺こうとしているだけだ。繰り返すが、作田は『カラマーゾフの兄弟』を論じるには何が何でもフロイトの理論枠組を用いなければならないと述べているわけではない。むしろ作田はそれとは逆のことを述べている。
 つまり、作田はフロイトによる「原父殺害とその結果のシナリオ」を、「アルカイックな人間社会で起こった変動を理解するための一つの仮構、いわゆる索出的(ホイリスティッシュ)な仮説」と見なす立場をとっているだけだ。言い換えると、作田によれば、フロイトの原父殺害のシナリオをそのまま現実(たとえば、ドストエフスキーの人生やドストエフスキーの小説)に適用することはできない。それはあくまで古代社会に起きた変動を理解するための仮説にすぎない。言い換えると、作田によれば、亀山のようにその原父殺害のシナリオをそのままドストエフスキーの人生やドストエフスキーの小説の解釈に使うことはできないのである。
 このように、作田においてはつねに理論と現実との往復運動が反復され、その理論の適不適が厳しい吟味を受けるのである。私見にすぎないが、このような作田の態度は丸山真男の次のような態度に通じるものだ(「 」内は原文で傍点)。

 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方嚴密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある「断念」と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対する「いとおしみ」がそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。(丸山真男、『日本の思想』、岩波新書、1961、p.60)

 要するに、丸山はその「自己の知的操作に対する厳しい倫理意識」とともに、理論を現実と対比し続けることによって、できるだけ理論のもつ暴力性(私のいう「物語の暴力」)を最小のものにしようと努めるのである。作田のドストエフスキー論を始めとする理論的著作においても、丸山のそれと同様、「自己の知的操作に対する厳しい倫理意識」が見られる。と言うより、理論を用いて現実を扱う者にとって、これはあえて言う必要もない倫理であろう。
 このため、たとえば、作田はリチャード・ピースの『カラマーゾフの兄弟』論(R・ピース、『ドストエフスキー──主要作品の検討』所収、ケンブリッジ大学出版部)を批判する。これはピースがフロイトの「エディプス・コンプレックス」理論を現実(『カラマーゾフの兄弟』の内容)から離れてイデオロギー的に使っているからだ。ある理論を現実から離れて使うとき、その理論は暴力的なイデオロギーになる。このため、作田は次のようにいう。

 ピースは『トーテムとタブー』の父親殺しを直接の枠組としていないが、この枠組の背景となっているもっと一般的なフロイト的概念であるエディプス・コンプレックスを通してドミトリイの感情を分析する。ドミトリイは殺人罪で告訴された時、以前アリョーシャに語った自分の言葉を思い出す。「ことによると、殺さないかもしれないし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただ、いざという瞬間に急に親父の顔が憎らしくなりゃしないかと、それが心配なんだ。おれはあいつののどぼとけが、あの鼻が、あの目が、あの恥知らずなせせら笑いが憎らしくてならないんだ。肉体的に嫌悪を感じるんだ。それがおれには気がかりなんだ。こればかりはどうにも我慢できないのでな・・・」(小沼文彦訳『カラマーゾフの兄弟1・全集10』第三篇五、筑摩書房)。合理的に説明できないこの憎悪を、ピースは自分の母を奪ったライヴァルとしての父に対する憎悪であると説明する(ピース、前掲書、二五六ページ)。息子の母に向けられる性的欲望は抑圧せざるをえないから、その抑圧のゆえに、父への憎悪はその理由が意識できないものになる、というわけである。
 ドミトリイが嫉妬深い男でないこと、グルーシェンカをめぐってのフョードルに対する嫉妬は何か一種特別のものであること、この二点に関しては、私はピースの意見に同意する。しかし、フョードルに対する嫉妬の一種特別な性質をエディプス・コンプレックスに結びつけることには賛成できない。それは私がこの概念の一般的な有効性を否定するからではなく──それが一般に有効であるかどうかを検討するのは現在の課題ではない──この概念に頼らなくても、ドミトリイの非合理と言ってよいほどの憎悪、理性の統制が及ばない憎悪を、読者はよく理解できるからである。それは息子の生きようとする願望一般をみずからの恣意によって理不尽に抑えつけ、そのうえ、この願望一般そのものをシニカルに嘲弄する圧制者としての父への憎悪である。(以下略)(作田、前掲書、pp.332-333)

 ここに見られるような「自己の知的操作に対する厳しい倫理意識」は亀山のドストエフスキー論には皆無だ。彼は次々に自分の妄想を紡ぎ出し、読者を煙に巻くだけだ。そこに見られるのはトンチンカンな思いつきであり、自分を大きく見せようという幼稚な虚栄だけだ。たとえば、亀山は自分はフロイトを超えるのだと豪語しながら、次のようにいう。

 だが、『カラマーゾフの兄弟』は、そうしたフロイト流の読みを超えた、はるかに重大な罪の刻印を帯びている。すなわち、父殺しの罪の意識に覆いかぶさるようにして彼を襲ったもうひとつの罪、敢えていうなら、『旧約聖書』のカインとアベルに、さらには『群盗』におけるカールとフランツになぞることのできる「兄弟殺し」の罪である。しかし、あらかじめ述べておきたいのは、この兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてあることである。なぜなら、大いなる統率者、支配者たる父親の死の後にくるのは、当然のことながら、母性を占有してきた父権をめぐる兄弟同士の争いだからである。(以下略)(亀山、前掲書、pp.36-37)

 これを読めば誰でも亀山が正気でないことが分かるだろう。なぜなら、カインとアベル、それにカールとフランツのあいだに生じた争いは、明らかに嫉妬あるいはルネ・ジラールのいう模倣の欲望によるものにすぎないからだ。また、亀山の言うように、「兄弟殺しのテーマが、父殺しの派生体としてある」わけではない。ルネ・ジラールによれば、両者は同じ位相にあるものだ。これについては次回に。