続・自尊心の病

 昨日(5月3日)のブログ「自尊心の病」で、私は次のように書いた。

『ステパンチコヴォ村とその住人』を書いていた頃、ドストエフスキーは自尊心の病というものに強い関心をもっていた。しかし、自分がその病に憑かれていることに気づいていたか、ということになると、それは疑わしい。なぜなら、フォマー・オピースキンの意識は『地下室の手記』の主人公のように分裂していないからだ。フォマー・オピースキンは明らかに『地下室の手記』の主人公の前身だが、フォマーは自分の正しさを疑ってはいない。作者の経験は作品の登場人物において反復される。従って、ドストエフスキーフォマーのように自分の自尊心の病に気づいていないと見るべきだ。

 この箇所、自尊心の病に憑かれている読者には理解できないだろう。特に「フォマー・オピースキンの意識は『地下室の手記』の主人公のように分裂していない」という箇所。
 たとえば、フォマー・オピースキンの意識だって分裂しているではないか、という、ペレヴェルゼフのようなドストエフスキー研究者もいる(ペレヴェルゼフ、『ドストエフスキーの創造』、長瀬隆訳、みすず書房、1989、pp.83-84)。しかし、フォマー・オピースキンのような意識の分裂は表層的なものにすぎない。これに対して、『地下室の手記』の主人公の意識の分裂はその意識の存立をも脅かす根底的なものだ。『地下室の手記』の主人公は自分の意識の成り立ちそれ自体を疑っているのだ。このような事態を指して、私は「フォマー・オピースキンの意識は『地下室の手記』の主人公のように分裂していない」と言うのだ。つまり、フォマー・オピースキンが自分の意識の分裂を意識していないのに対して、『地下室の手記』の主人公は自分の意識の分裂を意識しているのだ。このため、フォマー・オピースキンは自分の正しさを疑わないのに、『地下室の手記』の主人公は自分の正しさを疑うのである。ルネ・ジラールが指摘しているように、前者がロマン主義的な自己意識であり、後者がそれを乗り越えた意識なのだ(ジラール、『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社1984、pp.80-81)。
 しかし、今も昔も、自尊心の病に憑かれているロマン主義的な読者がドストエフスキーの読者の大半を占める。このため、『地下室の手記』の主人公は、わざわざ次のように言う。

わたし自身のことを言えば、諸君が半分も追いつめて考える勇気のなかったことを、わたしはわたしの人生においてぎりぎりのところまで追いつめて考えただけだ。まあ諸君など、自分を欺きながら、自分の臆病さを良識と取り違え、自分を慰めているだけだ。

 と言ったあと、『地下室の手記』の主人公はこう続ける。
 まあ、あんたがた、自分をたいそうな者だとお思いだろうが、ゼロだよ。生まれたときから死んでいるよ。あんた方は「死産児」だよ。いろんな本を読んで、頭の中を一杯にしているがね、それをぜんぶご破算にしてごらん。何が正しいのか、何が間違っているのか、さっぱり分からなくなるよ。あんた方が生きているんじゃない。本が生きているんだ。だから、あんた方は「死産児」なんだ。
 彼はなぜこんなことを言うのか。それは自分が本から仕入れたシラー風あるいはカント風の人道主義が売春婦のリーザに対しては何の役にも立たなかったからだ。また、自分はこれまで自分自身の頭や感情で生きてきたのではなく、シラーやカントに自分を乗っ取られて生きてきた、ということが分かったからだ。
 これは『野火』を書いていた頃の大岡昇平にしても同じだ。彼もまたスタンダールなどに自分を乗っ取られて生きてきたのだ。『野火』の真価は、主人公がそのような自分──ドストエフスキーも含めたさまざまな作家の物語に乗っ取られた自分──にしだいに気づいてゆくところにある。この点で『野火』は『地下室の手記』に酷似しているのだ。このことを指して大岡は自分の主人公は『地下室の手記』の主人公と同様に「無性格」だと評するのである。福井勝也はせっかく大岡昇平ドストエフスキーの関係を論じながら、このことにまったく気づいていない。それは福井が自尊心の病に憑かれたロマン主義者だからだ。
 ところで、これは『地下室の手記』や『野火』の主人公だけではなく、私たちの大半に起きている事態でもある。マルクスレーニンに自分を乗っ取られて生きている者もいるだろう。フロイトラカンに乗っ取られている者もいるだろう。彼らはみな「物語」に自分を乗っ取られているのだ。「物語はなぜ暴力になるのか」「非暴力を実現するために」で述べたように、彼らは「物語の暴力」に屈しているのだ。
 では、なぜ私たちはそんな物語の暴力に屈するのか。それは、その物語を身に帯び、世界を支配したいからだ。「支配」という言葉が強すぎるとすれば、「理解」と言ってもいい。たとえば、マルクスの物語に屈する者は、マルクスの物語によって世界を理解あるいは支配しようとする。『地下室の手記』の主人公はシラー風の理想(物語)によって自他を理解あるいは支配しようとしたが、その物語はリーザと出会うことによって破綻する。マルクスの物語によって世界を理解あるいは支配しようとしたソ連の人々においても、その物語は破綻した。
 では、なぜ私たちはある物語を身に帯びようとするのか。それは自分がゼロであることを認めたくないからだ。無価値な「死産児」であることを認めたくないからだ。自分がひとかどの人物であると自他に認めさせたいのだ。これが自尊心であり、そのような自分の自尊心の動きに気づいていない者を指して、私は「自尊心の病に憑かれている者」と言い、ジラールは「ロマン主義者」と呼ぶのだ。
 ところで、ドストエフスキーが嘆いているように、『地下室の手記』には大事なところに検閲の手が入っていて、ドストエフスキーがどこまで以上のことを言語化していたのか不明になってしまっている。しかし、ドストエフスキーが以上のことを十分理解していたのは明らかだ。なぜなら、「[file:yumetiyo:あなたには癒しでも私には暴力.pdf]」でも触れたように、『地下室の手記』直後に書かれた『罪と罰』では、私のいう「物語の暴力」がラスコーリニコフの「旋毛虫の夢」として描かれ、ラスコーリニコフに回心への道が開かれ「生きた生活」が始まるからだ。「生きた生活」とは自分を無と見なし、自分を生みだした神とともに生きるということだ。
 ドストエフスキーの作品を年代順に読んでゆけば、以上のことは容易に分かるはずだ。しかし、ドストエフスキー研究者を含め、分からない人の方が多い。何度も言うが、それはその人が『ステパンチコヴォ村とその住人』のフォマー・オピースキンのように自尊心の病に憑かれたロマン主義者であるからだ。これから時間があれば、亀山郁夫だけではなく、そのようなロマン主義的なドストエフスキー研究者も批判してゆきたい。