追補・大岡昇平とドストエフスキー

 福井勝也の「大岡昇平ドストエフスキー──『野火』を中心に」(『ドストエーフスキイ広場 No.19』)を読んでやりきれない気持になったことについては先のブログ(「大岡昇平ドストエフスキー」)で述べた。しかし、どうも言い足りないので、私の考えをもう少し丁寧に説明しておこう。(いちいち福井論文に言及しないが、福井論文と私の以下の文を読み比べていただければ、福井論文がいかに荒唐無稽なものであるかが分かるだろう。)
 福井論文の前書きが意味不明のものであることは先のブログで述べたとおりだ。だから、それについてはもう触れない。
 福井はその前書きに続いて、大岡の「『野火』の意図」という文章を紹介しながら、『野火』の内容について述べる。福井は長々と引用しているが、すべてを引用する必要はないと思うので、その一部を引用する。

 最初の予定では、主人公は独特な「神」を得るはずでした。それが出来なかったのは「神」の観念が作品の進行と共に分裂したからでした。(大岡昇平、「『野火』の意図」)

 では、「神」の観念はどんな風に分裂したのか。結論から先に言えば、それはアニミズム的な神とキリスト教の神に分裂したのだ。引用しよう。

 この小説の「神」の観念は「レイテの雨」で扱った、孤独者を見ている神、保護者としての神から出発しています。それは僕の少年時の幻影で、大人の智慧には敵いそうもないので、それを狂人の頭に宿らせることにしたのです。
 狂人とても我々とそう違った精神構造をもっているわけではなく、むしろ我々より論理的であるというのが、僕の口実で、狂人の詭弁を通してこの原始的な神の観念を生かすことができるような気がしていました。受動的な敗兵に、自然が恩恵的なヴィジョンとして現れるように、自然からじかに神が生まれるような気がしていました。
 こういう素朴な詐術がどこへ導くか、大抵わかっていなければならなかったのですが、ぼくはそれで〈ドストエフスキイと共に日本に輸入された文学的な神〉と対抗できるようなエゴチスムを持っていたのです。(大岡昇平、「『野火』の意図」)

 ここで大岡のいう「原始的な神」「自然からじかに」生まれた「神」というのは、アニミズム的な「自然神」のことだ。
 また、大岡はこのような自然神によって「ドストエフスキイと共に日本に輸入された文学的な神」、すなわちキリスト教の神を排除しようとしていた。排除するのは大岡の「エゴチスム」(=エゴイズム)のため、すなわち大岡が「自尊心の病」(肥大した自尊心のこと:私の用語)に憑かれているためだ。
 大岡は自らの自尊心の病のため、キリスト教の神に屈服し、無になることなど到底できなかった。このため、アニミズム的な神を持ち出し、対抗させようとしたのだ。しかし、それは破綻してしまう。なぜなら、大岡自身、その自尊心の病のため、アニミズム的な神の前にも平伏することができず、その神を信じることもできないからだ。これが「狂人の詭弁を通して」、「素朴な詐術」という言葉の意味だ。作者自身が信じてもいないものを、登場人物が本当に信じているように描くことなどできない。描くとしても、そこには何のリアリティもないし、それは詐術にすぎない。
 一方、もちろん、大岡はその自尊心の病のため、「ドストエフスキイと共に日本に輸入された文学的な神」、すなわちキリスト教の神も信じることもできない。
 このため、主人公の精神は分裂してゆく。繰り返すが、精神が分裂するのは自尊心の病のためだ。これこそドストエフスキーが『地下室の手記』で描こうとしたことだ。また、この自尊心の病のため、『地下室の手記』の主人公は、「現代人は無性格だ」と言う。すなわち、自尊心の病に憑かれた現代人の精神は分裂せざるを得ない。人よりも一枚上を行こうとする自尊心の病が、現実の生活ではエゴイズムとしてあらわれ、彼の美しい理想(=隣人愛)を裏切るのだ。言い換えると、理想があるかぎり、彼はその理想のために「悪い人」になることもできないし、その自尊心の病のために「良い人」になることもできない。彼は永遠に「良い人」と「悪い人」に引き裂かれたまま生きなければならない。これが「無性格」ということだ。このブログの最初に引用した「『野火』の意図」の文章の前で大岡は次のように述べる。

 現代人が無性格であるとは、ドストエフスキイがおいた礎石で、それは動かないと思うのですが、一方僕にはスタンダールバルザックの性格人間に郷愁があり、結局二兎を追って、一兎も得ないことになります。
 『野火』では「性格」に替わるよりどころになって現れたのが、『レイテの雨』で否定した「神」だったのです。そして「神」は超絶的な概念ですから、「神」を見る主人公は当然性格を持ち得ません。信仰を得るか、亡びるか、どっちかです。
 最初の予定では、主人公は独特な「神」を得るはずでした。それが出来なかったのは「神」の観念が作品の進行と共に分裂したからでした。(大岡昇平、「『野火』の意図」)

 要するに、『野火』の主人公の肥大した自尊心は『地下室の手記』の主人公の自尊心と同様、砕かれてゆく過程にある。砕かれてしまえば、回心するか、死ぬしかない。このため、大岡は、

「神」を見る主人公は当然性格を持ち得ません。信仰を得るか、亡びるか、どっちかです。

という。
 繰り返すと、誰でも、自分をそれまで保ってきた肥大した自尊心が砕かれれば、回心するか、死ぬしかない。その中間はない。
 どれほどの信仰心を持っていたのかは知らないが、中野好夫などと同じく、大岡には回心のことがよく分かっていた。このため、福井も引用している次のような言葉が大岡の口から出てくる。

 僕の文学趣味はスタンダールからシェイクスピア、ダンテと遡って行ったので、つまりは異端の系列を辿っていたのだとわかったのです。同時に僕が『野火』で表現しようとしたのも、一つの異端ではなかったかと思い当たりました。事実異端はこの作品を書いているうちに、頭をかすめたことがあるのです。マニ教アウグスティヌスに迫害された理由の一つは、人間を〈完全人〉と〈不完全人〉に分けたことにあります。前者は僧侶、後者は一般の信者を意味します。後者は前者に諸戒を委ねて、ただ信じていればいという教義です。異端は常に正統のパロディで、この区別も教会のものとはそれほど違いはないと思われますが、そこが多分教会の気に入らないところで、〈完全〉と称するのが傲慢にあたるわけです。僕が二四年に読んだキリスト教の本にこの〈完全人〉の説明がありました。その時から、主人公を〈完全人〉の倨傲によって身を滅ぼすようにしようかと考えたのです。つまり主人公があまりに自己に執着して、何でも自分の内部で片づけようとするのが陥穽になって、發狂するという風に考えたのでした。(大岡昇平、「『野火』の意図」)

 ここで大岡は「異端」という言葉を人間中心主義というぐらいの意味で使っている。このため、「スタンダールからシェイクスピア、ダンテと遡って」行って、その先にマニ教が出てくる。
 ところが、福井はこの大岡の発言を次のように説明する。

 大岡が描こうとした主人公の倨傲がここで言う〈完全人〉の問題であって、「異端」という問題を『罪と罰』(のラスコーリニコフ)に当てはめるならば、「分離派」の問題として考えるのは、現在普通の解釈と言える。

 ここで福井のいう「分離派」とはニコンの改革によってロシア正教会から離れていったキリスト教徒たちのことか。もしそうなら、農奴制を温存しているロシア帝国を支えていたロシア正教会から見れば、彼らはたしかに「異端」だ。しかし、彼らのことを〈完全人〉を求める、「倨傲」な「異端」と呼ぶことはできない。彼らは〈完全人〉を求める傲慢な人々の群ではない。ドストエフスキーは、迫害されながらも、この世の権力に迎合することなく、キリストへの信仰を守っていた分離派を高く評価していた。これが「現在普通の解釈」だろう。
 続けて福井は次のようにいう。

さらにラスコーリニコフのナポレオン主義が「非凡人=完全人」であるとすれば、『野火』という小説で大岡が意図したテーマがドストエフスキーの『罪と罰』と重なってくることになる。そしてその前提として、スタンダールからシェイクスピア、ダンテと遡って行った異端の系列のスタンダールのその先にドストエフスキーが位置することが容易に予想される。

 「スタンダールからシェイクスピア、ダンテと遡って行った異端の系列」をさらに遡れば、当然、ダンテより古い年代の異端ということになれば、それはたとえば、アウグスティヌスが批判したマニ教のようなものになるはずだ。このため、大岡はマニ教について述べているのだ。
 それなのに、なぜマニ教の代わりにドストエフスキーを当てはめなければならないのか。また、なぜドストエフスキーが「異端の系列」に属するのか。逆だろう。ドストエフスキーは異端ではない。
 今はもう亡くなった友人、牛丸康夫神父(大阪ハリストス教会)と生前何度も話したことだが、ドストエフスキーキリスト教信仰は本物であり、たとえば、トルストイのそれは違う。これは明らかなことだ。トルストイマニ教徒のように信仰における人間中心主義の現れである菜食主義にこだわり、家の者を困らせた。ドストエフスキーはそのような人間中心主義に陥ってはいない。
 このように、福井論文を読んでいると、私は次々に涌き起こってくる疑問に恐怖を覚える。福井は大岡がドストエフスキーについて述べた片言隻句をとらえて、何としても大岡とドストエフスキーを結びつけようとする。何度読んでも私には二人を結びつけなければならない理由が分からない。大岡はキリスト教のことが分かっていたというだけのことだ。『野火』の末尾を読めば、そのことは明らかだ。福井も引用している『野火』のその部分を引用しておこう。主人公はフィリピン人を食べようとして、後頭部を殴られ、気絶する。そしてこう思う。

 思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを喰べなかったからである。殺しはしたけれど、喰べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意思では喰べなかった。だから私はこうして彼らとともに、この死者の国で、黒い太陽を見ることができるのである。
 しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間どもを懲らすつもりで、実は彼らを喰べたかったのかもしれなかった。野火を見れば必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかもしれなかった。
 もし私が私の傲慢によって、罪に堕ちようとしたちょうどその時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば──
 もし神が私を愛したため、あらかじめその打撃を用意し給うならば──
 もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば──
 もし彼がキリストの変身であるならば──
 もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば──
 神に栄えあれ。(三九、「死者の書」)

 他にもいろいろ批判したいことはあるが、これくらいにしておこう。いずれにせよ、福井は無理矢理ドストエフスキー大岡昇平を結びつけたあげく、こういう。

 さらには明治期以来のドストエフスキー文学受容の経緯を考えるとき、大岡昇平を小林自身が目指した、日本の近代文学者流に曲解されたドストエフスキーを『野火』によって正しく定着させた作家だと位置付けたい。

 「小林自身が目指した、日本の近代文学者流に曲解されたドストエフスキー」というのはどういう意味か。小林秀雄ドストエフスキー解釈が間違っているということか。私は間違っているとは思わない。もちろん、小林にはキリスト者であった森有正椎名麟三のようなドストエフスキーに肉薄するようなドストエフスキー論は書けなかった。だから、小林はドストエフスキーから本居宣長に批評対象を移したのだ。これについては、小林自身、自分にはキリスト教が分からないからそうしたのだ、と告白している。それなのに、なぜ、ここに大岡昇平の『野火』を持ち出して小林を貶める必要があるのか。また、なぜ、ドストエフスキーについて片言隻句しか述べていない大岡昇平が、ドストエフスキーを日本に「正しく定着させた」と断言できるのか。森有正椎名麟三は「正しく」定着させなかったのか。何が何だかさっぱり分からない。大岡昇平ドストエフスキーを曲解しているのは福井勝也の方だろう。
 福井がそんな風に書いてある事実を何でもかんでもひん曲げて読んでしまうのは、自分の自尊心の病に気づいていないからだ。言い換えると、福井は、先の「『野火』の意図」で大岡が述べている『野火』の主人公のように、「あまりに自己に執着して、何でも自分の内部で片づけようとするのが陥穽になって」、テキストをありのままに読むことができないのだ。また、このため、亀山のとんでもないドストエフスキー論にも感心してしまう。