このブログを始めた理由

 なぜこのブログを始めたのか。その理由についてはすでに2013年10月2日の記事で説明している。しかし、今では他の記事に埋もれて読みにくくなっているので、それを複写し、ブログの最初の部分に掲げておこう。最近は日記帳や忘備録みたいになっているこのブログだが、最初は目的があって書いていたのだ。

匿名について


 私がこんな風にブログを書き始めることになったのは、ドストエフスキーについて意見を交換している、ある掲示板を読んだからだ。それまで私はインターネットの掲示板というものにあまり関心がなかった。インターネットを使うのは、メールを書いたり、研究のための資料調べをするためだった。
 しかし、あるとき、ドストエフスキー研究者の木下豊房から、そのドストエフスキー掲示板で亀山郁夫ドストエフスキーをめぐる仕事に関して信じがたいことが書かれているというメールをもらった。そこでその掲示板を読んでみると、たしかにそこでは亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論を激賞する投稿が並んでいた。しかし、私は、亀山の本を出している出版関係者か亀山と利害を一にする人々の投稿だろうと思って、うち捨てておいた。
 ところが、あるとき、亀山批判を展開している木下豊房のハングル名は「朴」だろうという投稿があった。木と下をくっつけると、朴になる。つまり、木下というのは通名で、本名は朴だという投稿なのである。要するに、木下は在日なのだから亀山を批判するようなバカなのだ、という風な論理をその投稿者は展開していた。私は驚き、すぐさま実名でその掲示板に投稿し、その投稿者に質問をした。木下が在日であるというのは事実なのか。また、それが事実であるとしても、それと木下の亀山批判が間違っているという貴女の主張とどのような関係があるのか、と。
 すると、その掲示板の管理者があわてて、その「木下=朴」説を唱えた投稿を削除した。その女性も投稿しなくなった。いや、それが女性であったのかどうかさえ分からない。その女性言葉を使う投稿者は匿名であったからだ。
 私は一件落着と思い、その掲示板でしばらく亀山批判を展開したのち退場しようと思った。ところが、ある投稿者が私に、実名で投稿するのは困る、匿名で投稿してほしい、と提案した。他の投稿者たちも全員賛成のようであった。なぜなら、私以外は全員、匿名での投稿であったからだ。私はその提案を断った。仮面舞踏会みたいなことは私にはできない、それは無責任だ、と言った。すると、その掲示板の管理者が、実名でも無責任なことを言う人はいる、と言った。これは話にならないと思ったが、とくに反論はせず、そのまま実名でその掲示板にしばらくのあいだ書き込み、そして退場した。
 これから以降、私は匿名掲示板というものに興味をもち、ときどき読むようになった。何に興味をもったのか。それは匿名で書く人々の心理に興味をもったのである。亀山のドストエフスキーをめぐる仕事に関しても、インターネット上で、匿名でさまざまなことが論じられていた。ホームページやブログでも同様だった。匿名記事の中には正確な亀山批判もあったが、大半が無責任な亀山賛美だった。その余りの無責任さにあきれ、私は実名で亀山を批判するため、このブログを始めたのだ。
 それは必ず実名でなければならなかった。実名で言ってはならないことは、匿名でも言ってはいけないのだ。だから、匿名で発言する理由は何もない。匿名でないと発言できないという人は、ふだん仮面をかぶって生きているのだ。その仮面の下には、「すべてが許されている」という、ドストエフスキーのいう「死産児」が隠されている。その「死産児」を明らかにしたくないため、彼らは匿名でしか発言できないのだ。
 こう言うのが言い過ぎであることを私は認識している。匿名で発言する人の中にも、実名で発言するときと変わらない人がいることも私は知っている。また、実名で発言することによって、自分や自分の周囲の者が不利益をこうむるため、匿名で発言している人がいることも知っている。彼らが死産児であるかどうかは私には分からない。
 しかし、私の見るところでは、匿名の発言者の大半はドストエフスキーのいう「死産児」なのである。彼らは自分のことは棚に上げて、他者をくそみそにやっつける。とくに、先の「木下=朴」説を唱えた投稿者のように、社会的弱者を徹底的に攻撃する。私はそのような匿名の発言者を認めることができない。それは、彼らの暴力を認めることになるからだ。
 ところで、最近、そのような暴力にあふれた匿名掲示板のひとつ「2ちゃんねる」に書き込んでいる者の実名がインターネット上に流出し、大騒ぎになった。政治家、マスコミ関係者、出版社関係者、大学の研究者などの名前も流出したという。私はひどい発言をした者の名前とその発言内容をすべて公表してほしいと思う。これによって、ドストエフスキーのいう「死産児」がどれほど現在の日本にあふれているのかということが明らかになるだろう。また、彼らに反省を迫ることも可能になるだろう。
(その流出騒動について述べているブログがこちら。残念なことに、このブログもまた匿名の人物によって書かれている。)

初心忘るべからず

 「初心忘るべからず」という言葉があるが、私にとって「初心」とは、離人症(私の場合は離人神経症)から回復したときの感覚だ。離人症に30歳すぎになった。自尊心の病の果てになった病だった。その数年後に見た離人症から回復したときの風景については何度も書いたことがある。その風景を見たときの感覚を一言で言えば、「生きている感覚を味わうだけで十分である」ということだ。離人症のときは、生きている感覚を味わうことができず、自分の目の前で言い争ったり仲良くしたりしている人を見ても、動物園のお猿を見ているような感じしか受けなかった。それが、離人症が治ったとき、同じ人間の振るまいとして感じるようになったのだ。また、それまで疎遠であった景色も、実感をともなって感じることができるようになった。要するに、私はゼロから無限大の存在になったのだ。ゼロから見ると、限りなくゼロに近い0,0000000...1でさえ無限大なのである。このほんの一歩が私にとっての「初心」だ。だから、嫉妬したり、言い争ったりしている人を見ると、ずいぶんぜいたくなことをしていると思ってしまう。そういう人を見ると、私は「初心」にかえって、もっと大事なことに自分の一歩を使いたいと思う。もっと大事なこととは人を愛するということだ。

ハゲタカ

 妻は四年前、最初の病院(A病院としておこう)で、余命一週間と宣告されたのち、それが誤診であるということが分かり、しばらく治療を受けていたが、A病院では手に負えないということで、別の病院(B病院としておこう)に移った。妻の病状について回想するつもりはない。それは冷凍保存のままにしておく。たぶん、忘れてしまうだろう。
 ただ、忘れられないことがあったので、それについてのみ記しておこう。
 A病院で妻が余命一週間と宣告された直後、私が病院から帰宅し、妻の下着の洗濯などをしていると、インターホンが鳴った。インターホンのカメラを見ると、見知らぬ女性が映っていた。私は放置した。翌日、同じ女性が来て、同じようにインターホンを鳴らした。また、私は無視した。その翌日も同じ。何日続いただろうか。それからしばらくすると、別の女性が二人でやってきて、インターホンを鳴らした。私はこれも無視した。彼女たちがやってきたのは、二度ほどだったと思う。
 それから、妻はB病院に移り、医者から、早ければ余命半年と宣告された(妻はそれから三年近く生きたのだが)。

 妻がB病院に移ったあと、最初に、ネクタイを締めた背広姿の初老の男性が来て、インターホンを鳴らした。三度ほど来たと記憶している。その男性が来なくなると、別の人々が来るようになった。そういう具合で、妻が死を宣告されてから、一週間に一回ぐらいは誰かがインターホンを鳴らすようになった。私はずっと家にいたわけではないので、本当の回数は分からないのだが。
 しかし、妻が亡くなると、そういう人たちはぱったり来なくなった。まるでハゲタカだなと私は思った。

冷凍保存

 ずいぶん久しぶりのブログだ。これから思い出したら書くことにしよう。
 昨年の九月、舌癌の手術をした。幸い、初期のもので、すぐ退院できた。しかし、ロシア語が喋りにくくなった。巻き舌のRの音が出ない。日本人の半分ぐらいは巻き舌のRの音が出ないそうだから、まあ、いいか。
 私が手術をしたあと、十二月に、五十年近く寝食を共にしてきた妻が亡くなった。三年余り前から難病のため、入退院を繰り返していたが、とうとう亡くなった。事情があって、私ひとりで看病をしていた。
 自分を看病しながら妻を看病するのは忙しかった。悲しむヒマもなかった。
 先日、テレビを見ていると、伊丹十三の奥さんの宮本信子が夫の死を冷凍保存していると言っていた。誰しも同じことを考えるものだと思った。
 私は死ぬ直前になったら、妻の死を解凍しよう。しかし、解凍するヒマがあるだろうか。

翁長さんの死

翁長さんは理性では日米安保条約はしかたがないと思っていたが、無意識の部分で日本の本土の人間を許すことができなかったということだろう。このため、途中で態度を変えた。これは韓国の人々にも言えることだ。彼らも従軍慰安婦問題で日本との約束を反故にした。人間は無意識の部分の方が圧倒的に大きい。だから、いくら理性を持てと言っても無駄なのだ。韓国・朝鮮の人々と同様、沖縄の人々も日本人を永遠に恨み続ける。彼らが屈辱を晴らすのにはそれしか方法はない。政治的にこの争いを収束させるのには双方の妥協しかないのだ。
http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm