お詫び

いつだったか、わたしが癌の手術をした頃だったので、今から4年前ぐらい前だったか、このはてなブログがリニューアルされることになり、ブログの文章とつなげていたリンクが切れてしまった。リンクを復活するのも手間がかかるので、放っている。ご容赦頂ければ有り難いと思う次第です。

(某年某月某日記す)

「自尊心の病」という言葉について

 ドストエフスキーが『スチェパンチコヴォ村とその住人』で使っている「偽りの自尊心」という言葉を、わたしが「自尊心の病」という言葉に言い換えて使い始めたのは、『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(p.26)でも述べたように、1995年に大阪府立大学に勤め始めてすぐのことだ。
 しかし、論文で「自尊心の病」という言葉を使い始めたのは何時だろうと思って、調べてみたら、「あなたには癒しでも私には暴力――物語と最初の暴力」(2002)が最初のようだ。
 京大の作田啓一氏がわたしの『スチェパンチコヴォ村とその住人』を論じた「ゴーゴリとファラレイ」(1984)という論文を読み、自分の主宰している「分身の会」に来てくれという手紙をわたしによこし、わたしがその会に参加するようになったのは1984年か翌年の1985年のことだろう。
 わたしはその会に参加している人すべて(と言っても、当時は織田年和、富永茂樹、作田啓一、わたしの四名で、のちに増えたが)に、「あなたには癒しでも私には暴力――物語と最初の暴力」も含む自分の書いた論文をすべてコピーして渡していた。さらに、「分身の会」のメンバーはわたしが会で報告するたび、わたしの言う「自尊心の病」という言葉を繰り返し繰り返し、しつこいほど聴いていたはずだ。
 「自尊心の病」という言葉をわたしの専売特許だと言うつもりはないが、わたしが使っている意味とは異なる意味で使われると混乱を招くので、使うのなら、その言葉は『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(p.26)で述べたような意味で使ってもらいたいと思う。

 なお、ジラール(『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社)も作田啓一(『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書)も「自尊心の病」という言葉は使っていないし、わたしとは異なる意味で「自尊心」という言葉を使っている。

(某年某月某日記す)

当ブログの題名の由来

「心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮れ」
(私訳:もはやこの世には何の用もないと思い定めた私なのに、秋の夕暮れ、鴫が水辺から飛びたつのを見ていると、今更ながらこの世のはかなさが身に沁みる)。

(某年某月某日記す)

このブログを始めた理由

 なぜこのブログを始めたのか。その理由についてはすでに2013年10月2日の記事で説明している。しかし、今では他の記事に埋もれて読みにくくなっているので、それを複写し、ブログの最初の部分に掲げておこう。最近は日記帳や忘備録みたいになっているこのブログだが、最初は目的があって書いていたのだ。

匿名について


 私がこんな風にブログを書き始めることになったのは、ドストエフスキーについて意見を交換している、ある掲示板を読んだからだ。それまで私はインターネットの掲示板というものにあまり関心がなかった。インターネットを使うのは、メールを書いたり、研究のための資料調べをするためだった。
 しかし、あるとき、ドストエフスキー研究者の木下豊房から、そのドストエフスキー掲示板で亀山郁夫ドストエフスキーをめぐる仕事に関して信じがたいことが書かれているというメールをもらった。そこでその掲示板を読んでみると、たしかにそこでは亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論を激賞する投稿が並んでいた。しかし、私は、亀山の本を出している出版関係者か亀山と利害を一にする人々の投稿だろうと思って、うち捨てておいた。
 ところが、あるとき、亀山批判を展開している木下豊房のハングル名は「朴」だろうという投稿があった。木と下をくっつけると、朴になる。つまり、木下というのは通名で、本名は朴だという投稿なのである。要するに、木下は在日なのだから亀山を批判するようなバカなのだ、という風な論理をその投稿者は展開していた。私は驚き、すぐさま実名でその掲示板に投稿し、その投稿者に質問をした。木下が在日であるというのは事実なのか。また、それが事実であるとしても、それと木下の亀山批判が間違っているという貴女の主張とどのような関係があるのか、と。
 すると、その掲示板の管理者があわてて、その「木下=朴」説を唱えた投稿を削除した。その女性も投稿しなくなった。いや、それが女性であったのかどうかさえ分からない。その女性言葉を使う投稿者は匿名であったからだ。
 私は一件落着と思い、その掲示板でしばらく亀山批判を展開したのち退場しようと思った。ところが、ある投稿者が私に、実名で投稿するのは困る、匿名で投稿してほしい、と提案した。他の投稿者たちも全員賛成のようであった。なぜなら、私以外は全員、匿名での投稿であったからだ。私はその提案を断った。仮面舞踏会みたいなことは私にはできない、それは無責任だ、と言った。すると、その掲示板の管理者が、実名でも無責任なことを言う人はいる、と言った。これは話にならないと思ったが、とくに反論はせず、そのまま実名でその掲示板にしばらくのあいだ書き込み、そして退場した。
 これから以降、私は匿名掲示板というものに興味をもち、ときどき読むようになった。何に興味をもったのか。それは匿名で書く人々の心理に興味をもったのである。亀山のドストエフスキーをめぐる仕事に関しても、インターネット上で、匿名でさまざまなことが論じられていた。ホームページやブログでも同様だった。匿名記事の中には正確な亀山批判もあったが、大半が無責任な亀山賛美だった。その余りの無責任さにあきれ、私は実名で亀山を批判するため、このブログを始めたのだ。
 それは必ず実名でなければならなかった。実名で言ってはならないことは、匿名でも言ってはいけないのだ。だから、匿名で発言する理由は何もない。匿名でないと発言できないという人は、ふだん仮面をかぶって生きているのだ。その仮面の下には、「すべてが許されている」という、ドストエフスキーのいう「死産児」が隠されている。その「死産児」を明らかにしたくないため、彼らは匿名でしか発言できないのだ。
 こう言うのが言い過ぎであることを私は認識している。匿名で発言する人の中にも、実名で発言するときと変わらない人がいることも私は知っている。また、実名で発言することによって、自分や自分の周囲の者が不利益をこうむるため、匿名で発言している人がいることも知っている。彼らが死産児であるかどうかは私には分からない。
 しかし、私の見るところでは、匿名の発言者の大半はドストエフスキーのいう「死産児」なのである。彼らは自分のことは棚に上げて、他者をくそみそにやっつける。とくに、先の「木下=朴」説を唱えた投稿者のように、社会的弱者を徹底的に攻撃する。私はそのような匿名の発言者を認めることができない。それは、彼らの暴力を認めることになるからだ。
 ところで、最近、そのような暴力にあふれた匿名掲示板のひとつ「2ちゃんねる」に書き込んでいる者の実名がインターネット上に流出し、大騒ぎになった。政治家、マスコミ関係者、出版社関係者、大学の研究者などの名前も流出したという。私はひどい発言をした者の名前とその発言内容をすべて公表してほしいと思う。これによって、ドストエフスキーのいう「死産児」がどれほど現在の日本にあふれているのかということが明らかになるだろう。また、彼らに反省を迫ることも可能になるだろう。
(その流出騒動について述べているブログがこちら。残念なことに、このブログもまた匿名の人物によって書かれている。)
(某年某月某日記す)

初心忘るべからず

 「初心忘るべからず」という言葉があるが、私にとって「初心」とは、離人症(私の場合は離人神経症)から回復したときの感覚だ。離人症に30歳すぎになった。自尊心の病の果てになった病だった。その数年後に見た離人症から回復したときの風景については何度も書いたことがある。その風景を見たときの感覚を一言で言えば、「生きている感覚を味わうだけで十分である」ということだ。離人症のときは、生きている感覚を味わうことができず、自分の目の前で言い争ったり仲良くしたりしている人を見ても、動物園のお猿を見ているような感じしか受けなかった。それが、離人症が治ったとき、同じ人間の振るまいとして感じるようになったのだ。また、それまで疎遠であった景色も、実感をともなって感じることができるようになった。要するに、私はゼロから無限大の存在になったのだ。ゼロから見ると、限りなくゼロに近い0,0000000...1でさえ無限大なのである。このほんの一歩が私にとっての「初心」だ。だから、嫉妬したり、言い争ったりしている人を見ると、ずいぶんぜいたくなことをしていると思ってしまう。そういう人を見ると、私は「初心」にかえって、もっと大事なことに自分の一歩を使いたいと思う。もっと大事なこととは人を愛するということだ。
(某年某月某日記す)

ファニーとアレクサンデル

 ベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」という映画は長い映画で、途中、休憩が入った。そのとき、三越劇場からコーヒーと卵サンドが提供され、映画を観ていた人は、それを味わった。その卵サンドは絶品で、その後、そんな卵サンドを食べたことがない。

 絶品と言えば、昔、芦屋のホテルでだったか、ロシア料理を食べたことがあり、それはある食品会社が招いたソ連のホテルの料理長が作ったもので、これも、それ以来食べたことがないような絶品だった。それ以来、どんなロシア料理を食べても、まずいと感じるようになった。

 映画や文学作品も同じで、絶品とも言える作品を観たり読んだりすると、もうそれ以下の作品には目が向かなくなる。わたしにとって、ドストエフスキーベルイマンの作品はそういうもので、わたしが小説を書くのを止めたのも、ドストエフスキーの作品が理解できるようになったからだ。これはベルイマンも同じで、彼の映画が分かるようになってからは、他の映画を真剣に観る習慣が失われた。ドストエフスキーベルイマンも一貫して、わたしのいう「自尊心の病」をテーマにして作品を創っていると分かったのは、わたしが40歳を過ぎた頃だったか。それとも少しずつそういうことが分かってきたのか。
 「ファニーとアレクサンデル」という映画も自尊心の病をテーマにした彼の作品の集大成とも言うべき映画で、そのことが分かるようになった頃、わたしは小川正巳先生が書こうとしていたことも分かるようになった。小川先生は、自分の書く詩が『たうろす』同人諸氏からボロカスに言われる(いつもボロカスに言われたが)と、口惜しそうに「井口さんに誉められたらええんや」と言うのが常だった。わたしは「井口さん」というのが誰なのか知らなかったし、小川先生も説明しなかったので、結局、それが何者なのか分からなかった。しかし、小川先生が嘘をつかない人だということは分かっていたので、「井口さん」というのは、小川先生と関係のあった、富士正晴野間宏の作っていた同人誌『三人』の仲間だろうと思っていた。
 「ファニーとアレクサンデル」という映画はベルイマンが最後に創った映画で、それはそれまでにベルイマンが撮ってきた映画と同じで、自称キリスト教徒がいかにインチキかということを描いた映画なのである。何がインチキかといえば、自分の傲慢さ、わたしの言葉で言えば、自分が自尊心の病に気づかないまま、非キリスト者を軽蔑しているキリスト者のインチキさ、というか、愚かさを徹底的に描いた映画なのである。
 小川先生は、ニーチェと同じように、牧師である自分の父親を見ていて、そう思ったのだろう、と、わたしは考えるようになった。ドストエフスキーも同じだ。彼も自称キリスト者の傲慢さを描き続けた。これは法橋和彦のような自称コミュニストも同じで、自分が正しいと思っていると、傲慢になってしまう。そのような信仰や思想は無意味だ。
 自分が正しいと思っていると、それが大きな罪だということに気づけない。言い換えると、誰かを軽蔑していると、それが大きな罪だということに気づけない。ドストエフスキーベルイマンも小川先生も、そういうことを言い続けて、一生を終えた。(2025/01/14、文章の一部を書き換えました。)

卵サンド

 昔、北浜の三越劇場ベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」を観た。それ以前に、一回、ベルイマンの別の映画をベルイマンのことを何も知らずに観た。ベルイマンの何の映画だったか忘れたが、観たところ、全然理解できなかった。今回もダメだろうと思って観た。なぜ観たのかといえば、新聞などでベルイマンは凄いという人が何人もいたからだ。そういう不純なというか、アホな理由でわたしはついふらふらと観たのである。
 観て、プロテスタントの牧師というのは何ていやな連中だろうと思い、プロテスタントの牧師の息子だった小川先生にそう言ったところ、小川先生はうれしそうに、「そうやろ、ほんま、アホばかりや」と言った。わたしは何も分からないまま、「それに比べてカトリックはええですな」と、自分でもよく分からないくせに、そう言った。
 「ファニーとアレクサンデル」という映画ではプロテスタントの牧師が強迫神経症のヘンタイみたいに描かれていて、そのヘンタイの牧師の家にカトリックの家で育った(記憶あいまい)ファニーという少女とアレクサンデルという少年がもらわれていき(理由は忘れた)ひどい目に遇い、牧師から逃げ出し、もうこりごりだと思いながら自分の育ったカトリックの家に帰るという話なのである。そして、最後はカトリック万歳、というような感じで終わる(これも記憶あいまい)。
 わたしはその映画を観て、神戸外大でスペイン語を教えていた六甲教会の神父をしていた愛すべき、鼻の赤いアル中気味のスペイン人の先生を思い出したので、小川先生にそんな出鱈目を言ったのである。
 それから何十年もして、あるとき、小川先生が「わし、カトリックになったんや」と言った。「プロテスタントはかなわん」と、ためいきをつきながら、「カミさんはプロテスタントのままや」と、また、ため息をついた。
 小川先生は若い頃、大阪のプロテスタント系の女子大に神戸外大から非常勤講師に行き、そこにいた学生と恋に落ち、駆け落ちしたのである。なぜ駆け落ちしたのかといえば、そのとき、小川先生は神戸の長田でプロテスタントの牧師をしていた父親の遠縁の娘(「楚々とした美人でなあ」と先生は言った)と、むりやり(と、小川先生は強調した)結婚させられていたからである。
 小川先生とその学生は南海高野線千代田駅の近くの旅館で抱き合って振るえていた(と言ったのは、小島輝正だ)。「あいつら、心中してないかと心配して、ぼくと岸本が行くと、こう、布団の中でぎゅーと抱き合ってやな、ぶるぶる振るえてやがるの。うぉほっほ」と、小川先生の前で、うれしそうに笑った。
 岸本というのは、小島の学生時代からの友人で言語学者岸本通夫のことだ。20ヶ国語ができる堅物だった(と思う)。
 岸本さんは垂水駅前の鮨屋で鮨をのどにつまらせて死んだ(その鮨屋は大きい鮨を出すので有名だった)。しかし、わたしが書きたかったのは、こんなことではない。三越劇場のサンドイッチのことを書こうと思っていたのだ。あんなにうまい卵サンドはあれ以来食べたことがない。

(2025/01/06 文章の一部を書き換えました。)