2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)

フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない これまでジラールによるフロイト批判を紹介してきたが、ジラールのフロイト批判にも拘わらず、フロイト理論やフロイト理論から派生したラカン理論を信奉する人は多い。そんなことになっているのは、フロ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(8)

亀山はなぜジラール理論を使ったのか さて、これまでの批判によって最初の約束を果たすことができたと思う。この批判の第一回目で私は次のように述べた。 先に引用した亀山の序文に明らかなように、亀山はこれからフロイトの「父殺し」の理論、つまり、エデ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(7)

すべては模倣の欲望から始まる 前回の最後に紹介したジラール理論のお粗末な「要約」のあと、亀山は次のようにいう。 しかし、じつは私がここに見るのも、シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波です。分身のモチーフが、ドイツ・ロマン主義の作家ホ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)

分身幻覚について これまで述べてきたことからも分かるように、亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論は常軌を逸したものだ。これを放置しておくのはドストエフスキー研究者としてあまりにも無責任なので、私は木下豊房と連名で日本ロシア…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(5)

自分の物は自分の物、他人の物も自分の物 これまで述べてきたことから、亀山が自分のドストエフスキー論の「出発点」にしているフロイトの「父殺し」のシナリオが、ドストエフスキー論では成り立たないことが明らかになった。それにも拘わらず、亀山は『ドス…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(4)

使嗾もない 前回、亀山はジラールのいう「模倣の欲望」=「父親殺し」という考えが理解できないまま『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書いていると述べた。このため、亀山は自分の出鱈目なジラール理解を『ドストエフスキー 父殺しの文学』で吹聴し続けて…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(3)

亀山のドストエフスキー論における根本的な矛盾 前回述べたように、ジラールは、ドストエフスキーによる模倣の欲望の発見によって初めて、フロイトのエディプス・コンプレックスの概念、そして、その概念から派生した『トーテムとタブー』の「父親殺し」のシ…