ロシア語の語順 

 ロシア語を知らない人には、亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』の或る重要な一節を、「ロシア語は、基本的に語順は自由」と断言しながら論じていることに、なぜ木下豊房が怒り狂っているのか分からないだろう。しかし、それは怒り狂うのが当然なのであり、50年前ならともかく、今ではロシア語の語順が自由でないことなど、ロシア語を習った者なら誰でも知っている。知らないとすれば、それは亀山郁夫のような教師に習ったからだ。
 たとえば、私自身、神戸外大のロシア語教授法の授業で、ロシア語の語順を松川秀郎から習った。それは今から40年以上前になる。また、今でも愛用しているソ連科学アカデミー発行の『現代ロシア語文法』(モスクワ、1970)には、ロシア語の語順について詳しい説明がある。もちろん、1970年以前からソ連では語順の参考書が多数出版されていた。だから、亀山が在学していた東京外大でも、当然、ロシア語の語順を教えていたはずだ。
 ところで、恥ずかしながら、私自身、ロシア語の語順をほんの少し研究し、学生用の参考書を書いたことがある(『ロシア語の語順』、関西大学視聴覚教室、1991)。その付録として、私が収集し、その参考書に収めた例文の朗読テープを付けた。朗読テープを付録として付けたのは、ロシア語の語順はイントネーション抜きに語れないからだ。モスクワ大学から神戸外大に交換教授で来ておられた音声学の専門家に、私が語順がはっきり分かるよう注文を付けながら朗読して頂いた。この参考書とテープを使って神戸外大のロシア語専攻の学生にロシア語の語順を教えたことがある。また、大阪外大のロシア語専攻の学生にはロシア語の語順の知識を伝えながら購読を行った。
 ロシア語学を専門としていない私がそんな講義をし、参考書まで作ったのは、ドストエフスキーの翻訳を読んでいて、しばしば亀山郁夫訳のようなロシア語の語順に無知な訳文に出会ったからだ。訳者がロシア語の語順に無知なまま訳すと、訳文の意味がもうろうとしたものになり、小説のプロットが分かりにくくなってしまう。これはドストエフスキーの小説の翻訳にとって致命的な欠陥になる。その理由を説明しておこう。
 このブログの「名前について」の中で言及した「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf 直」や「ドストエフスキーと最初の暴力(承前)──共通感覚について.pdf 直」でも述べたことだが、言語の壁を越えることができるのは、等質的な意味をもつ言葉だけだ。
 たとえば、数詞や自然科学の理論などは言語の壁を越える。越えるからこそ、自然科学者たちは、たとえば英語を共通語として使いながら情報を交換し、母国語が何であろうと共同で研究を進めることができる。
 ところが、人文科学の著作物や文学作品などは言語の壁を越えることができない。だから、人文科学系の国際会議ではしばしば話が紛糾し、自然科学系の国際会議のようにすんなり話が通じるというわけにはゆかない。
 たとえば、森有正が自らの人生を棒に振って確認したことだが、日本には「社会」や「個人」は存在しない。存在するのは、「社会」や「個人」に似て非なる「社会」、すなわち「世間」であり、「個人」とは言えない、集団主義に組み込まれた「人」だけだ。だから、「社会」や「個人」という言葉を使っても、その言葉に対応する実態が日本にはない。このため、たとえば、フランス人が「社会」や「個人」という言葉で意味するものと、日本人が「社会」や「個人」という言葉で意味するものは違う。これは「社会」や「個人」にかぎらない。だから、たとえば国際会議などで、英語を共通語として使ったとしても、互いの母国語が違うと話が通じにくくなる。
 このような事態はすでに20世紀初頭にソシュールが指摘していたことで、森有正はそれに気づかず、自らの人生を賭けて実験し、結果的には、ソシュールの指摘の正しさを確認しただけになった。つまり、ソシュールによれば、ある言語体系(たとえばフランス語)の中にある言葉を別の言語体系(たとえば日本語)に移すことはできない。ある言語体系の中の言葉はその言語体系(あるいは文化体系)の中でのみ意味を持つのであり、別の言語体系(あるいは別の文化体系)の中では無意味な音声になる。
 比喩的に言えば、金魚鉢から放り出された金魚が死んでしまうように、ある言語体系から放り出された言葉は生命を失うのである。
 しかし、「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」で述べたように、小説のプロット(諸事実を結びつける因果関係)は、ちょうど自然科学の理論が言語の壁を越えることができるように、言語の壁を越えることができる。
 たとえば、「王様が亡くなり、悲しみのあまり、王妃様も亡くなりました。」という「ストーリー(諸事実)」と「プロット(諸事実の因果関係)」をもつ「物語」で、「王様が亡くなった」と「王妃様も亡くなった」という二つの事実を結びつける因果関係、すなわち「悲しみのあまり」というプロットは、言語の壁を越えることができる。これは、「悲しみ」という人間の感情が言語の壁を越える普遍性をもつからだ。このような普遍的な人間の活動などは言語の壁を越えるプロットとして機能する。外国語で書かれた小説や人文科学の本などが理解可能なのはこのためだ。従って、このようなプロットをいかに正確に他の言語に移すことができるかが、翻訳者の腕の見せ所になる。
 以上から、ロシア語の小説を訳すとき、ロシア語の語順に対する知識が不可欠になる。なぜなら、語順に対する知識がないと、テキストを正確に訳すことが不可能になり、それはすなわち、プロットを明確に訳出することが不可能になることを意味するからだ。
 特にドストエフスキーの小説を訳出する場合、プロットを明確に訳出できなければ、それは致命傷になる。すでに「ドストエフスキーの壺の壺」で述べたように、プロットに穴が開いているドストエフスキーポリフォニー小説を読むとき、その穴をふさいでゆくのがポリフォニー小説を読んでゆく読者に求められる行為だった。このような行為を求められるため、ドストエフスキーポリフォニー小説は何回読んでも新鮮で飽きることがないのだった。しかし、読者によって埋められるはずの穴の開いたプロットではなく、テキストに現に存在するプロットが正確に訳されていないと、穴の開いたプロットを埋めてゆくという読者の楽しみは失われる。読者はプロットの穴を埋めるどころではなく、いったい何をどうすればよいのか分からない混乱状態に陥る。
 木下和郎などが指摘しているように、自分で『カラマーゾフの兄弟』を訳しておきながら、亀山郁夫がプロットを誤解して醜態を晒しているのも、プロットを語順に注意して正確に訳していないからだ。
 以上のような事態を避けるため、私は専門外であるにも拘わらず、ロシア語の語順の参考書を書いたのだった。ロシア語でドストエフスキーを読む人は、プロットを正確に把握するため、特に語順に気をつけてほしい。このような願いを込めて、私は語順の参考書を書いた。
 ところで、私はその参考書を書いたとき、理論的枠組みをベルクソンの『創造的進化』から借用した。なぜ借用したかといえば、これは新発見だろうが、ロシア語の語順が、ベルクソンのいう動物の生命活動の様態をそのまま語順に反映していることが分かったからだ。説明してみよう。
 「ゴーゴリとワイルドのキャンプ──文学と同性愛について(5)」(p.4)で説明したように、ベルクソンの『創造的進化』によれば、生命活動には次の二種類がある。

(1)「目ざめた意識」による生命活動。生の躍動に満ち与えられた環境を乗りこえてゆく、動物に特有の生命活動。
(2)「眠った意識」による生命活動。与えられた環境に寄生し新しく行動を起こすことなく成長し老いてゆく、植物に特有の生命活動。

 要するに、(1)の動物の生命活動は、与えられた環境を反復しながら、その与えられた環境を乗りこえてゆく生命活動(「反復+乗りこえ」)であり、(2)の植物の生命活動は、与えられた環境を反復しながら、与えられた環境をほとんど乗りこえず、しかし、生命を維持してゆく程度には新しいものを取り込みながら(葉緑素による炭酸同化作用など)行われる生命活動(「反復+生命の維持」)だ。
 この(1)のような生命活動によってもたらされる生命感を「動物的生命感」、(2)によってもたらされる生命感を「植物的生命感」と名付ける。ちなみに、私見によれば、シモーヌ・ヴェイユもこの『創造的進化』からヒントを得て、動物に特有の生命活動から「補充的(あるいは、意志的)エネルギー」、植物に特有のそれから「植物的エネルギー」という概念を作り出していると思う(シモーヌ・ヴェイユの『超自然的認識』を参照)。
 さて、すでに述べたように、この動物的生命の様態、すなわち、「反復+乗りこえ」がそのままロシア語の語順に反映されている。つまり、ロシア語では、通常、ひとつの文章の前半部に、それまでの情報を反復する情報、あるいは出発点になる情報(周辺的情報あるいは既存の情報、英語のthe的な情報)が現れ、文章の後半部に、それまでの情報を乗りこえる情報(中心的情報あるいは新しい情報、英語のa的な情報)が現れる。たとえば、

(1)Здесь(ここまでが「反復」で、以下が「乗りこえ」)стул.(ここに椅子がある。)
(2)Стул(ここまでが「反復」で、以下が「乗りこえ」) здесь.(その椅子はここだ。)

 と、なり、語順によって意味は異なる。
 ちなみに、日本語ではそれまでの情報を反復する情報、あるいは出発点になる情報には「は」という助詞が、それまでの情報を乗りこえる情報には「が」という助詞が付く。
 このため、上の(1)の訳文では、それまでの情報を乗りこえる情報である「椅子」に「が」が付き、(2)の訳文では、それまでの情報を反復する情報である「椅子」に、本来冠詞のないロシア語の名詞に「その」を付け、さらに「は」を付けている。細かいことは『ロシア語の語順』を見てほしいが、「は」や「が」は必ず使わなければならないというわけではない。いずれにせよ、ロシア語と日本語では言語構造が違うので、いつでもロシア語の語順を忠実に反映した訳文を作ることができるわけではない。しかし、ロシア語の語順に対する知識があれば、ロシア語文を正確に読み取ることが可能になり、訳文もより明晰なものになるだろう。
 さて、最後に、この文章を書くきっかけになった亀山郁夫の無知について述べておこう。
 亀山は『カラマーゾフの兄弟』の「Убил отца не ты.」というテキストについて、次のようにいう。

 Я одно только знаю, … Убил отца не ты.
 この語順のもつ異様さはさまざまな研究者の関心をひいているが、意味だけくんで単純に言い換えるならば「あなたは父を殺しませんでした」となるだろう。ロシア語は、語順は基本的に全部自由なので、あとはニュアンスの違いによってどう変わるかということになる。
 語順の異様さとは、父親を殺したという厳然たる事実が最初に提示されているにもかかわらず、その主語(つまり犯人の名前)が、最後まで留保されている感じに現れている。(ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟5』、亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、2008、p.280)

 ここの亀山による「あなたは父を殺しませんでした」という訳は間違いで、正しくは、

Убил отца(ここまでが「反復」で、以下が「乗りこえ」) не ты.(お父さんを殺したのは、あなたではない。)

 と、訳さなければならない。
 つまり、「ты(あなた)」は周辺的情報(反復)ではなく、「не ты(あなたではない)」という中心的情報(乗りこえ)の一部分なのである。また、このため、「не ты(あなたではない)」は文末に置かれているのであり、亀山の言うように、「その主語(つまり犯人の名前)が、最後まで留保されている感じ」を表すためではない。ここはたんに「お父さんを殺したのは、あなたではない。」、あるいは「あなたがお父さんを殺したのではない。」と述べているだけだ。亀山に語順の知識が少しでもあれば、こんな滑稽な誤りは犯さなかっただろう。
 暇があれば少しずつ指摘してゆくが、このような語順に対する無知のため、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』の訳文は混乱をきわめ、そのプロットも曖昧模糊としたものになり果てている。せっかくの名作がだいなしだ。