『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)

分身幻覚について
 これまで述べてきたことからも分かるように、亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論は常軌を逸したものだ。これを放置しておくのはドストエフスキー研究者としてあまりにも無責任なので、私は木下豊房と連名で日本ロシア文学会に亀山との公開討論を申し入れたのだった。ところが、二度とも亀山はその提案を拒否した。自分に理があると思うのなら、公開の場で自己弁護を行えばいいのに、その機会さえ亀山は拒否したのだ。これではもう亀山と公開討論の場を持てないとあきらめ、私はブログを立ち上げ亀山批判を始めたのだ。
 自分の自尊心に気づいていない者は、私を自分の同類と思うだろう。また、そのような人は亀山のドストエフスキーをめぐる仕事がいかにグロテスクなものであるかを理解できない。このため、私のこのような批判を亀山に対する嫉妬あるいはやっかみだと思うだろう。
 そのような人に言うが、私は亀山を馬鹿だと思いこそすれ、うらやましいと思ったことなどない。馬鹿にあこがれる者がどこにいるだろう。
 前置きはこれくらいにして本論に入ろう。
 亀山はどんな風にジラールを模倣しているのか。まず次の亀山の文章を読んでほしい。

 ドストエフスキーは夢想家です。いやロマンティストという言葉でいい換えてもよいでしょう。では、ロマンティストとはどのような人をいうのでしょうか。前回も引用したジラールによると、彼がロマンティストであったのは、『地下室の手記』を書いた時までのことであったということです。ロマンティストとは、自分の肥大した自尊心によって突き動かされている人のことです*1。その意味でじつに危険な存在なのです。この肥大した自尊心は、当然のことながら、他人(すなわち世界)と絶えずぶつかり、軋轢を生まざるをえません。ドストエフスキーがこの肥大した自我、すなわちロマンティストの悲劇に目覚めるのは、これからお話しする第二作『分身』においてなのです。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、p.86)

 脚注(このブログの末尾に掲載)にあるように、亀山は私の論文を引用してはいるが、読んでいないことは明らかだ。なぜなら、「ドストエフスキーがこの肥大した自我、すなわちロマンティストの悲劇に目覚めるのは、これからお話しする第二作『分身』においてなのです。」と述べているからだ。「ロマンティストの悲劇」に目覚めるとは、もはやロマン主義者ではなくなるということになるだろう。従って、亀山によれば、『分身』はロマン主義的な作品ではないことになる。しかし、私がその論文で引用しているジラールによれば、『地下室の手記』以前に書かれた『分身』はもちろんロマン主義的な作品なのである。ジラールは次のようにいう。

・・・『分身』がめざましい作品だとしても、まだこの作品は本質的なものを明らかにするには至っていない。これは特に地下室の自己中心主義(エゴティズム)において文学が演じる役割を解明していない。(ルネ・ジラール、『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社1984、p.80)

 ここでジラールがいう「地下室」とは模倣の欲望が解明される『地下室の手記』を指している。要するに、ジラールが言いたいのは、『分身』においては『地下室の手記』によって解明された自尊心の病が解明されておらず、従って、『分身』はロマン主義的な段階にとどまっているということだ。
 亀山が「分身」とロマン主義の関係を理解していないことは明らかだ。このため、亀山は「分身幻覚」について次のように書く。私は最初何度読んでもこの文章が理解できなかった。

 さて、ドストエフスキーにとって「分身」のテーマがもった意味とは、自己という存在の不確定性であり、さらには、もう一人の自己(alter ego)という存在の確認でした。では、そもそも分身が誕生するとは、どのようなことを意味するのでしょう。ここでも、私はやはりジラールの理論に強く惹かれます。
 「自尊心の強い人間は、その孤独な夢の中では、自分はひとりだと信じているが、失敗にでくわすと、軽蔑すべき存在と、それを見下す観察者とに分裂する。そして自分自身にたいして《他者》となる。(・・・)軽蔑する観察者は、勝ち誇るライバルに限りなく接近する。いっぽう、(・・・)わたしは、この勝ち誇るライバルの欲望を模倣し、その結果、このライバルは限りなく自分に接近する。意識の内部分裂が深刻化するにつれて、《自己》と《他者》の境界が不明瞭になっていく*2
 思うに、『分身』における理想的なライバル、すなわち、もう一人の自己と、現にある本来の自己との関係は一つ、理想化された自己(強者=支配者)と貶(おとし)められた自己(弱者=被支配者)の関係以外にありません。この関係は、その後のドストエフスキーの小説で繰り返し変奏されていきますが、後者すなわち貶められた自己=弱者から見る両者の関係は、憎悪とか抵抗とかのぎすぎすした関係ではなく、むしろそれを模倣をしようとする欲求から生まれる関係です。これは『貧しき人々』においても同様でした。(『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)、p.93)

 亀山は脚注を付けているが、なぜジラールの『Critique dans un souterrain』を自ら翻訳しているのか。また、なぜその邦訳である『地下室の批評家』(織田年和訳、pp.79-80)から引用しないのか。さらに、なぜ鈴木訳の『ドストエフスキー──二重性から単一性へ』を不完全に引用し、『Critique dans un souterrain』を自ら翻訳しているように見せかけているのか。
 理由はよく分からないが、いずれにせよ、亀山がジラールがここで述べていることを理解していないことは明らかだ。なぜなら、亀山は鈴木訳から理解に苦しむような剽窃を行っているからだ。以下、亀山が剽窃している鈴木訳の後半部を掲げてみよう。亀山が省略している箇所を太字で示す。

・・・軽蔑する観察者(「自己」の中の「他者」)は、勝ち誇るライバル(「自己」の外の「他者」)に限りなく接近する。いっぽう、すでに述べたように、わたしは、この勝ち誇るライバルの欲望を模倣し、ライバルはわたしの欲望を模倣し、その結果、このライバル(「自己」の外の「他者」)は限りなく「自己」に接近する。意識の内部分裂が深刻化するにつれて、「自己」と「他者」の境界が不明瞭になっていく。この二つの運動が一点に収斂し、そこから分身の《幻覚》が生まれる。障害は、意識の中に打ち込まれた楔のようなもので、あらゆる思考の二重化を助長する。幻覚の現象は、地下的な生活を特徴づけているすべての主観的・客観的分裂の結果であり、総合である。(ルネ・ジラール、『ドストエフスキー──二重性から単一性へ』、鈴木晶訳、法政大学出版局、1983、pp.45-46)

 私は亀山訳を鈴木訳と照らし合わせて初めて分かったのだが、これはあまりにも乱暴な剽窃だ。剽窃するなら、ちゃんと剽窃しなければいけない。というのは冗談で、ここは鈴木訳からそのまま引用すべきだ。亀山訳ではいくら読んでも分からない。
 また、ここで亀山が鈴木訳の、

わたしは、この勝ち誇るライバルの欲望を模倣し、ライバルはわたしの欲望を模倣し、その結果、このライバル(「自己」の外の「他者」)は限りなく「自己」に接近する。

を、

わたしは、この勝ち誇るライバルの欲望を模倣し、その結果、このライバルは限りなく自分に接近する。

と、いう風に剽窃し、括弧付きの「自己」を括弧なしの「自分」にしているため、「自己」と「自分」の関係がわけの分からないものになっている。また、鈴木訳にはある「ライバルはわたしの欲望を模倣し」という語句を省いているので、なぜ「ライバルは限りなく自分に接近する」のかが分からなくなっている。要するに、亀山の訳文は無意味な言葉の羅列になっているのだ。
 もっとも、亀山が剽窃した鈴木訳では、括弧付きの「わたし」と訳すべきところを、括弧付きの「自己」と訳している。このため、括弧なしの「わたし」と括弧付きの「自己」との関係が分からなくなっている。私には次の織田訳の方が分かりやすい。

・・・軽蔑する観察者、つまり〈私〉のなかの〈他者〉は絶えず〈私〉の外部の〈他者〉、勝ちほこるライバルに接近する。他方、すでに見たように、この勝ちほこるライバル、この私の外部の〈他者〉の欲望を私は模倣し、彼は私の欲望を模倣するのであるが、彼は絶えず〈私〉に接近してくる。意識の内部の分裂が強化されるにしたがって、〈私〉と〈他者〉との区別はあいまいになる。この二つの運動が互いに同一地点をめざして接近し、分身の「幻覚」が発生するのだ。意識に打ちこまれた楔(くさび)のように、障害はあらゆる内省の二つに分裂しようとする傾向を激化させる。この幻覚現象は地下室の生活を規定しているあらゆる主観的および客観的な分裂の帰結であり、総合なのである。(『地下室の批評家』、pp.79-80)

 要するに、模倣の欲望に憑かれた私は、挫折によって、ダメな「私」とモデルとすべき理想の「他者」に分裂するのだ。これが分身幻覚だ。ここでいう「私」とは、模倣の欲望に憑かれた私の意識にとってはあくまで以前と同様の統一された私のように思われるのだが、じつは模倣の欲望によって分裂して生じた「私」にすぎない。すなわち、分身幻覚に陥った者にとって、もはや統一された私など存在しないのである。
 さて、以上を念頭に置いて亀山の先の文章を読むと、亀山がいかにジラールを理解していないのかが分かる。たとえば、次の文章を理解できる人がいるだろうか。

 思うに、『分身』における理想的なライバル、すなわち、もう一人の自己と、現にある本来の自己との関係は一つ、理想化された自己(強者=支配者)と貶(おとし)められた自己(弱者=被支配者)の関係以外にありません。この関係は、その後のドストエフスキーの小説で繰り返し変奏されていきますが、後者すなわち貶められた自己=弱者から見る両者の関係は、憎悪とか抵抗とかのぎすぎすした関係ではなく、むしろそれを模倣をしようとする欲求から生まれる関係です。これは『貧しき人々』においても同様でした。

 これはあまりにもお粗末なジラール理論の「要約」だ。
 まず「もう一人の自己と、現にある本来の自己との関係は一つ」という語句の意味が分からない。めまいがするほどの悪文だ。
 また、「貶められた自己=弱者から見る両者の関係は、憎悪とか抵抗とかのぎすぎすした関係ではなく、むしろそれを模倣をしようとする欲求から生まれる関係」も意味不明だ。模倣の欲望による関係は「憎悪とか抵抗とかのぎすぎすした関係」を生みださないのか。逆だ。模倣の欲望による関係は、主体がモデルに対して嫉妬や羨望の感情を抱くので、主体とモデルのあいだに「憎悪とか抵抗とかのぎすぎすした関係」が生まれる。
 この分身幻覚の話は次回に続く。

*1:萩原俊治「わが隣人ドストエフスキー」、『論集・ドストエフスキーと現代』、2001年、四〇一頁/ジラール『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社、一九八四年、七九〜八〇頁

*2:Girard R., Critique dans un souterrain, Lausannne, L'Age d'Homme, 1976, p.66