ドストエフスキーの「創造」

 ドストエフスキーの作品は、ドストエフスキーが書いたものではない。それはバッハの作品がバッハの書いたものではないのと同じだ。ドストエフスキーやバッハは神が創造したものを「保存」しただけだ。シモーヌ・ヴェイユは次のようにいう。

 創造することの不可能を知らず、認めもせぬことが、多くの誤りの源である。わたしたちは、創造の行為を模倣せねばならない。わたしたちに可能な模倣はふたつある。──ひとつは現実のもの、もうひとつは見せかけのもの──保存することと、破壊することである。
 保存の中には「わたしが」の痕跡はない。破壊の中にそれは存在する。「わたしが」は破壊という行為を通じて世界に自らのしるしを残す。(シモーヌ・ヴェイユ、『カイエ2』、田辺保、川口光治訳、みすず書房、1993、p.84)

 神が創造したこの宇宙を台無しにするのは、人間の「わたし」でありエゴイズムだ。「わたし」は無となって神とともに永遠に生きなければならない。だから、作品に「わたし」が現れてはならない。作者は神がつくった宇宙を「保存する」だけだ。しかし、そんな作品はそうそう現れるものではない。ドストエフスキーの信仰と才能を待って初めて、小説の世界でそれが可能になった。
 「亀山郁夫の鈍感力」でも述べたことだが、そのようなドストエフスキーの作品を、亀山郁夫は自分の卑小な「わたし」によって次々に破壊しているのだ。たとえば、バッハのコラールに卑猥な歌詞をつけて歌う者がいるとすれば、また、その歌手をもてはやす者が現れ、一世を風靡するとすれば、どうだろう。バッハを愛する人々は黙っているだろうか。黙ってはいないだろう。それは分かりきったことだ。私の亀山に対する抗議もそれと同じことだ。私は亀山がこれまでのドストエフスキーをめぐる仕事をすべて廃棄するまで抗議し続ける。