死産児

なぜ書くのか

わたしはなぜものを書くのか。これはものを書きはじめた頃からいつも自分に向けてきた疑問だった。それが何であれ、小説であれ論文であれ、ものを書くときにはいつも自分に「自分はなぜこれを書いているのか」と問いかけてきた。わたしにとって書くとは、な…

一度でも

一度でも手を抜いたらだめだよ。それを読んだ人は、もう二度ときみの書いたものを読んでくれないからね。 四十年以上前、学生の頃、小島輝正から言われた言葉だ。当時、ある同人誌の編集をしていた小島が「原稿がない」と嘆いていたので、書きためていた小説…

親殺し・子殺し

以前、精神に障害を抱えた三男の暴力に悩んだあげく、その三男を殺してしまった父親の記事(2014年12月4日付朝日新聞朝刊)を読み、どうして父親はそんな風に思い詰めてしまったのか、と不審に思った。そのあと、朝日新聞(2014年12月30日朝刊)に以下のよう…

出でよ、阿呆

ヴェイユが言うように、この人物は「真実を語っているのか、そうでないのか」ということだけが重要だ。それ以外のことはほんとうにどうでもいいことだ。しかし、真実を語るためには、自分の生きている世界の共通感覚(常識)が分からなければいけないととも…

『沖縄ノート』2

次に引用するのは、左翼のあいだで悪名の高い藤岡信勝氏の発言だが、私はほとんど違和感を覚えなかった。ここから浮かび上がってくるのは大江健三郎氏の小説家としての想像力がその『沖縄ノート』を書かせたという事実だけだ。大江氏は一種の小説として『沖…

匿名について

私がこんな風にブログを書き始めることになったのは、ドストエフスキーについて意見を交換している、ある掲示板を読んだからだ。それまで私はインターネットの掲示板というものにあまり関心がなかった。インターネットを使うのは、メールを書いたり、研究の…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ありのままでいい 前回、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、そして『悪霊』にスタヴローギンが登場した日はロシア正教の十字架挙栄祭で、旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。また、亀山のように、十字架挙栄祭が9月14日だということにすれ…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

タイム・テーブルの話 『謎とき『悪霊』』は107ページから「運命的な一日」と題して、ワルワーラ夫人とその息子ニコライ(スタヴローギン)の話に移る。このあたりの亀山の説明はいたって平凡で、『悪霊』を読めば分かることが述べられているだけだ。 た…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

ドストエフスキーの作品は「第二芸術」か 亀山の『謎とき『悪霊』』は446ページもある大冊だが、その最初の40ページで、『悪霊』が書かれた時代の説明、『悪霊』を書いていた頃のドストエフスキーの生活、『悪霊』第一部の粗筋、と言う風な順序で述べら…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

読者なのか作者なのか、はっきりしろ! 大学などで禄を食む文学研究者の書いた論文を読むと、しばしば、「それがどうした?」という気持になる。要するに、中途半端なのである。「あんたはこの作品を読者として読むのか、それとも作者として読むのか、どっち…

埴谷雄高

私は埴谷雄高の書くものを一度も良いと思ったことがない。初めて読んだ埴谷の本は『闇の中の黒い馬』だった。私の好きな中村光夫がラジオで誉めていたので買ったのだ。それに、当時、私の家で居候をしていた従兄弟が「はにや、はにや」といつも神さまのよう…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(8)

(承前) (2)マトリョーシャもマゾヒストではない 前回は亀山がいかに常識外れの読み方をするのかについて述べたが、今回もその続きである。 ただ、その前に、これまで亀山批判を行ってきた中で常に感じてきたことについて少し述べておこう。 私が大学や…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(7)

(承前) 亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で述べたマトリョーシャ=マゾヒスト説については、まず「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 」で、次に「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で批判した。その批判の根拠は「常識」…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

(承前) これから亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』を批判してゆくのだが、本当のことを言うと、こういうことはやりたくない。なぜか。それは、たとえば江川のラスコーリニコフ=666説にせよ、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説にせよ、それを批判するのは…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

(承前) ドストエフスキーを「ええかげん」に読むというのは、亀山のように無茶苦茶に読むということではない。そこには厳然としたルールがある。そのルールの範囲内で「ええかげん」に読め、ということだ。そして、繰り返しになるが、「自分の全存在をかけ…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。 「謎とき」とは何か。分かりきったことを…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

(承前) 「「謎とき」シリーズがダメな理由(5)」で述べたことだが、文学作品のテキストを創作ノートや同時代人の証言などを参考にしながら解釈するのは間違っている。作者の手紙を参考にするのもだめだ。なぜか。 それは自分で小説を書いてみればすぐ分…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

作品全体が美を定義する 江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んでいていつも思うのは、なぜ彼らはこんなに変なところばかり問題にするのかということだった。この疑問に対する答は「「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」(「死産児はいちばん大事な…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 前回掲げた学生用配布資料「スタヴローギンと「広い心」」はあくまで私の講義ノートの一部であり、じっさいの講義ではそのノートに対して口頭で補足を行いながら講義をすすめる。前回掲げた配付資料に欠けているのは、なぜスタヴローギンが善悪の区…

スタヴローギンと「広い心」

次の文章はここ十年ぐらい私が『悪霊』の講義(市民講座も含めた講義)のとき受講生に配布している資料です。私の講義ノートからの抜粋にすぎませんが、講義では、この配付資料にそってもう少し詳しく喋ります。ここは『悪霊』の中でももっとも重要な箇所の…

「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

「ラスコーリニコフ=666」説が無意味である理由 芸術作品を受容するときに私たちが取るべき態度は、森有正の次の言葉に尽きている。 どこでだったか、今ではすっかり忘れてしまったが、どこかフランス以外のところで、あるいはイタリアだったかもしれな…

「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

和洋折衷のコミックバンド すでに述べたように、小林秀雄のいう「「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンド」のひとつである江川・亀山コンビが読売文学賞を受賞した。これはそのコミックバンドが社会的に認められたということを意味する。誰が…

「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ソシュールが右翼? 今から考えると、離人症から私が癒えはじめたとき、つまり「[file:yumetiyo:森有正、そして小説について.pdf]」で述べたような出来事が私に生じたとき、私は「自尊心の病」から癒えはじめたのだと思う。言い換えると、60年安保で逮捕さ…

「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

離人症患者なのに この連載の第一回で「森はソシュール言語学の正しさを一生を棒に振って証明しただけだ」と述べた。ソシュールの言語学によれば、というか、死産児ではなく、常識が損なわれていないとすれば誰でも分かることだが、われわれが言語の壁を越え…

「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

死産児はいちばん大事なことを避ける 埴谷雄高、江川卓、亀山郁夫など死産児が書くドストエフスキー論の特徴は、いちばん大事なことをわざと避けるようにしている、ということだ。いや、これは脇から見ると、そう見えるというだけで、死産児当人は避けている…

「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 鬼束ちひろの「月光」という歌は、こんな風に始まる。 I am GOD'S CHILD(私は神の子供) この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?) こんなもののために生まれたんじゃない (『や…

なぜドストエフスキー論はカナリアなのか(補足)

「カナリアとしてのドストエフスキー論」でドストエフスキー論はカナリアだと述べた。私のこの言葉を不審に思う人がいるかもしれない。なぜドストエフスキー論だけなのか。トルストイ論やチェーホフ論はカナリアにならないのか。そう問う人がいるかもしれな…

「日本教」の消滅(承前) 

これまで述べてきたように、死産児の内面と現在の日本の状況は重なる。それは当然そうなるはずであり、日本人の多数派が死産児ということになれば、その死産児たちが生きている日本の社会は彼らの内面を反映したものになるからだ。この点についてあと少し述…

「悪霊」は死産児に入る(承前) 

前回、ドストエフスキーのいう「偶然の家族」について少し述べた。この偶然の家族は、日本の死産児について論じるために無視することのできない現象なので、再び取り上げておこう。 ドストエフスキーはその後半生のほとんどを費やして、この偶然の家族に深く…