続・「謎とき」シリーズがダメな理由(7)

(承前)
 亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で述べたマトリョーシャ=マゾヒスト説については、まず「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 直」で、次に「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で批判した。その批判の根拠は「常識」であった。「常識に従って読め」というのが私の言いたいことだった。この場合の常識とは何かということについて、今回は具体的に述べてゆこう。
 亀山は『謎とき『悪霊』』でも『『悪霊』神になりたかった男』を反復する。それもじつに詳細に反復する。「告白」(『謎とき『悪霊』』、pp.217-294)と題されたその78ページにもわたる長々とした叙述は、『謎とき『悪霊』』のもっとも重要な箇所であるはずだ。なぜなら、「スタヴローギンと「広い心」」でも述べたように、「スタヴローギンの告白」(以下「告白」と略す)はその内容があまりに過激であるため『ロシア報知』編集長のカトコフによって掲載不可となったが、『悪霊』のもっとも重要な箇所であることに変わりはないからだ。ドストエフスキー自身そう思っていたし、「告白」を含む『悪霊』を読むことのできる現在の私もそう思う。「告白」を欠いては『悪霊』の主人公であるスタヴローギンの自殺を了解することが不可能になり、『悪霊』全体を了解することも不可能になる。
 従って、亀山がその「告白」をどんな風に解釈しているのかということによって『謎とき『悪霊』』の価値も決まる。その解釈が素晴らしいものであれば、沼野充義が言うように、『謎とき『悪霊』』はドストエフスキーにも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作だということになるだろう。しかし、その「告白」解釈の核心をなすマトリョーシャ=マゾヒスト説が妄説にすぎないということになれば、沼野はとんだホラ吹きだということになり、『謎とき『悪霊』』は賞に値しない作品だということになる。従って、社会の公器である読売新聞は亀山から読売文学賞を剥奪し、選考委員の沼野を解任しなければならなくなる。
 亀山が唱えるマトリョーシャ=マゾヒスト説は、『『悪霊』神になりたかった男』と『謎とき『悪霊』』では、どのように違っているのか。その叙述の長さを除けば違いはない。亀山は基本的には同じ内容を反復しているだけだ。だから、私がこれまで行ってきた批判はそのまま通用する。詳しく見てゆこう。
 まず、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説が問題にしている「告白」の箇所を江川訳から引用する。江川はこの訳文についてこう説明している。

 校正刷版とアンナ夫人の筆写版の間には、かなり大きな差があるので、ここでは校正刷版をテキストとして採用した。それにドストエフスキー自身が手を加えている部分を注の形で示すと同時に、筆写版との異動についても明示することにした。訳文中[ ]で括(くく)った部分が校正刷版にはなくて、筆写版にはいっているところであり、《 》で括った部分は、校正刷版のみにあって、筆写版には欠落している箇所である。両者の差異を括弧のみによって簡単に表示できない場合は、注の形でアンナ夫人の筆写版のテキストの訳を収録した。(以下略)(ドストエフスキー、『悪霊(下)』、江川卓訳、新潮文庫、2011、pp.641-642)

 煩瑣な説明になっているのは、先に述べたように「告白」が校正刷の段階で没にされたためだ。その校正刷はドストエフスキー没後40年後の1921年に発見される。その校正刷には作者の修正が入っていた。また、それとほとんど同時にアンナ夫人による筆写版も発見される。これはドストエフスキーが「告白」を『悪霊』にとって絶対不可欠の章であると思っていたからだ。このため、夫人がその「告白」の散逸を恐れ、筆写し、後世の読者のために残しておいたのだと考えられる。
 以上のことを頭に入れて次の江川訳を読んでいただきたい。校正刷版と筆写版の差異を括弧のみによって簡単に表示できない箇所、つまり江川が注の形で示した箇所のうち、今回の議論に必要な箇所は一箇所だけだ。従って、それを(注:)という形で以下の訳文に挿入し、江川がつけたそれ以外の注は省いた。

 ある日、私の机の上からペンナイフがなくなった。それはまったく不必要なもので、なんということもなく、そこに置きっぱなしになっていたものである。まさかそのために娘が折檻(せっかん)されるなどとは思いもしないで、私はそのことを主婦に話した。ところが彼女はたったいま、何かのぼろきれがなくなったのを、娘が[人形を作るために]盗んだにちがいないと考えて、娘をどなりつけ、髪をつかんでお仕置きまでしたところだった。そのぼろきれはまもなくテーブル掛けの下からみつかったのだが、少女は[自分が罪もないのに折檻されたことに対して]文句ひとつ言おうとはせず、ただ黙って目をむいているばかりだった。私はそのことに気づき、[彼女はわざと文句を言おうとしなかったのだ]またそのときはじめて彼女の顔に目をとめた。それまでは、ただちらちら見かけるという程度だったのだ。彼女は髪や眉の白っぽい、顔にそばかすのある子で、ごくふつうの顔立ちをしていたが、表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。母親は、理由もなくぶたれたのに娘が口答えをしないのがおもしろくなくて、なぐりこそしなかったが、人形をつかんで娘の頭上にふりあげたところだったが、ちょうどそこへ、私のペンナイフの一件がもちあがったのである。《事実、その場に居合わせたのは私たち三人だけで、私の部屋の仕切りのかげにはいったのは、少女一人だけだった。》おかみは、最初の折檻が自分の手落ちであっただけにすっかり逆上してしまい、《箒(ほうき)にとびついて》箒から小枝の束を引抜くと、娘がもう数えで十二歳だというのに、私の見ている前で、みみずばれができるほど娘を打据えた。マトリョーシャは打たれても声をあげなかった。おそらく、私がその場に居合わせたからだろう(注:「おそらく・・・」以下、筆写版では「むろん、私がその場に立っていたからである」)。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。(江川卓訳、pp.665-667)

 亀山が問題にするのは、このパラグラフの最後の次の箇所だ。

マトリョーシャは打たれても声をあげなかった。おそらく、私がその場に居合わせたからだろう(注:「おそらく・・・」以下、筆写版では「むろん、私がその場に立っていたからである」)。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。(江川卓訳、pp.665-667)

 ここが亀山訳では次のようになっている。江川は「告白」の初校版(と言っても、これは亀山のいう初校版とは違うが)を使い、亀山はアカデミー版を使っているので少し内容が違う。

マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかったが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。そしてそれからまる一時間、はげしくしゃくりあげて泣いていた。(ドストエフスキー、『悪霊2』、亀山郁夫訳、2011、p.554)

 要するに、江川の使った初校版と亀山の使ったアカデミー版の違いは、「おそらく、私がその場に居合わせたからだろう」という文が前者にはあり、後者にはないということだけだ。亀山はこの違いを重視する。 そして、亀山は自分の訳文を示しながら、この箇所を次のように解釈する。訳文は当然江川訳と亀山訳では違うが、意味するところは同じだ。

 問題は、オリジナルが不明であるアンナ版(筆写版のこと:萩原)に、なぜ「私がそこに立っていたからだが」という一節が紛れこんだか、ということである。ドストエフスキーが、この一行に、かなり意識的であったことは、この書きこみの存在そのものが裏づけている。そうでなければ、あえてこのような口実を添える理由はなかったにちがいない。では、そもそも「なにか奇妙な感じにしゃくりあげ」とは何を意味しているのか。そしてなぜ、折檻が終わってから、まる一時間も「はげしくしゃくりあげて泣いていた」のか。 くどいようだが、アンナ版でのスタヴローギンは、マトリョーシャが「大声で」泣かなかったのは、そこに自分がいたからにちがいないと自信をもって書いている。しかしおそらく理由は決してそれだけではなかった。このとってつけたような説明は、たんにスタヴローギンの傲慢、ナルシシズムの証以外の何ものでもない、つまり、アンナ版のスタヴローギンには真実が与えられていないし、秘密を解く鍵も手渡されていないと言える。
 そこで改めて最初の問いに戻ろう。アンナ夫人は、なぜ、初校版に手を加え、「むろん、私がそこに立っていたからだが」という説明を加えたのか、ということである。想像するにこれは、アンナ夫人の作為であり、ペンナイフ紛失事件との関係で、恥辱的な快感に酔うマゾヒストとしての告白のくだりを削除したことに深くつながっていた。その流れからも、「私がそこに立っていたからだが」の副詞句は不可欠のものとなった。つまり、そのように理由を限定することによって、読者が余分な空想に走るのをブロックしようとしたのである。逆に、こうしてスタヴローギンが感じている何かについて、当のアンナ夫人自信がことさら想像を働かせたからと見ることができる。すなわち、この副詞句の解釈がけっしてあらぬ方向に誘導されないように手段を講じた、予防線を張ったということである。言いかえると、この『悪霊』全体から、スタヴローギンをマゾヒズムの関係性をできるだけ排除したい(排除すべきだ)との意図が働いた結果と見ることができる。なぜなら、アンナ夫人は、マゾヒズムこそは、スタヴローギンの人間としての復活にとって致命的な傷となることに気づいていたからである。しかし、「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入は、かえって別の解釈に道を開くことになった。つまり、別の視点からのマゾヒズムの混入である。ここはわたしの妄想ということでお許しいただこう。マトリョーシャは、まさにこのとき、スタヴローギンがしきりに強調してきた「屈辱」のマゾヒズムを、つまり、あられもない屈辱の姿を見られることの快感を体のどこかで感じていた可能性がある。そしてこのように、マトリョーシャがマゾヒズムの快感に目覚めているという仮説を立てることで、『悪霊』の「告白」は、「陵辱」のテーマから別の次元のテーマへとスライドしていく。すなわち、「愛」のテーマである。同時代の法に照らしても、マトリョーシャにたいする行為を暴行ないし陵辱という観念でとらえられるかどうか、判断はむずかしい。しかし、ドストエフスキー=スタヴローギンは周到にも、マトリョーシャの年齢をあいまいに設定した。初校版で「十四歳前後」と書いたのは、スタヴローギンを、法の追及から免れさせるための一種の口実だった。逆に十四歳の少女のマゾヒズムという点に照らしていうなら、それこそ、マトリョーシャと同じ十四歳、「足の悪い」リーザ・ホフラコーワがいる。自殺もせず、殺されもせず、あたりはばかることなくみずからのサド・マゾヒズムの欲望を口にし、照れず、たじろがない十四歳の小悪魔・・・。(亀山郁夫、『謎とき『悪霊』』、pp.235-237)

 この文章を読まれてどう思われただろうか。沼野充義によれば、亀山の文章は「読者を引きこみ、陶酔を誘う語り口」をもつ。この言葉を私なりに言い換えると、亀山は『悪霊』のピョートルのように、いや、ヒットラーのように語る。私はこれまでの経験によって、ぺらぺら喋るやつにろくなやつはいない、ということぐらいは知っている。亀山は読者に考えるひまを与えない。次々に意想外のことをしゃべりちらす。読者は頭がくらくらし、「何がどうなっているんだ」と思う。ため息をつくばかりだ。だから、亀山の文章は一度読んでも何が言いたいのかよく分からない。二度読んでも分からない。三度読むと、亀山がこの詐欺師特有の、根拠も示さずたたみかけてくる文章で何を隠そうとしているのかがうっすら分かる。
 亀山はその早口で何を隠そうとしているのか。それは自分の言っていることが根拠薄弱であることを隠そうとしているのである。
 まず、先の文章の亀山のいう「想像するにこれは、アンナ夫人の作為であり、ペンナイフ紛失事件との関係で、恥辱的な快感に酔うマゾヒストとしての告白のくだりを削除したことに深くつながっていた。」の、「ペンナイフ紛失事件との関係で、恥辱的な快感に酔うマゾヒストとしての告白のくだりを削除したこと」という箇所は何を意味しているのか。
 これはアンナ版以外では、スタヴローギンがペンナイフをわざと隠したということを指している。つまり、スタヴローギンは、ペンナイフを見つけたのに、マトリョーシャが鞭打たれるのを見物したいがため、ペンナイフをわざと隠したのだ。亀山によれば、スタヴローギンはその鞭打ちを見ながら、マゾヒズムの快楽に酔いしれる。さらに、亀山は「ここはわたしの妄想ということでお許しいただこう。」と断りながらも、マトリョーシャもまた鞭打たれながらマゾヒズムの快楽に酔いしれていたと言うのである。
 これが亀山のいうスタヴローギンとマトリョーシャのマゾヒズムにおける共犯関係であり、二人のあいだに成立する「「愛」のテーマ」なのである。
 しかし、ここで亀山は三つの間違いを犯している。正しくは次のとおりだ。
 (1)スタヴローギンはマゾヒストではない。
 (2)マトリョーシャもマゾヒストではない。
 (3)従って、二人のあいだに共犯関係は生じていない。
 まず(1)から説明してゆこう。


(1)スタヴローギンはマゾヒストではない
 スタヴローギンが人に殴られるとき快楽を感じるのは、マゾヒストであるからではない。殴られても決して自分を見失うことがないという自分に陶酔しているのだ。
 このことを明らかにするため、長文になるが、江川訳の「告白」を示す。ここは先に引用した江川訳の続きである。この箇所は校正刷版のみにあり、アンナ版(筆写版)にはない箇所なので、江川は《 》で囲んでいる。
 ちなみに、アンナ版では、この《 》内がなく、《 》のあと、「折檻がすんだとき、私はふとナイフを寝台の毛布の中に見つけ、それを黙ってチョッキのポケットに」と続いてゆく。要するに、亀山が言うように、アンナ版ではスタヴローギンがナイフをわざと隠す場面がなく、それに続く次の江川訳の、亀山がスタヴローギンがマゾヒストであるという根拠になっている箇所も削除されている。

 《ところが、実はその前にこういうことがあったのである。おかみが鞭(むち)を作るために、箒のほうへとんでいったちょうどそのとき、私はたまたま自分の寝台の上に、何かのはずみで机からそこへ落ちたのだろう、例のペンナイフを見つけたのである。私の頭にはそのとき、娘をぶたせるために、このことを言わないでおいてやろうという考えがうかんだ。私は即座に決心を固めた。こういう際、私はいつも息がとまりそうになる。しかし私は、何ひとつ秘密の残らないように、いっさいをできるかぎり明確な言葉で語っておくつもりである。
 これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたび、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたてられてきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命に危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何かの盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。同様に、決闘の場に立って、相手の発射を待ち受ける瞬間にも、私はいつもそれと同じ恥辱的な、矢も盾もたまらぬ感覚を味わっていた。とくに一度はそれがことのほか強烈であった。白状すると、私はしばしば自分から進んでこの感覚を追い求めたこともある。頬打ちをくらったときも(私は生涯に二度頬打ちをくらった)、恐ろしい怒りにもかかわらず、やはりそれがあった。ところで、そういう際に怒りをこらえていると、快感が想像しうるかぎりのものを越えてしまうのである。私はこのことをいまままでだれにも話したことがなく、ほのめかしたことさえなく、恥ずかしい不名誉なこととしてかくしてきた。しかし、一度、ペテルブルクの酒場で手ひどくなぐられ、髪をつかんで引きずりまわされたときには、酒に酔っていなかったし、この感覚を味わうことができず、ただ想像を絶する怒りをおぼえて、つかみあいの喧嘩(けんか)をしてしまっただけであった。だが、もしも私の髪をつかんで引倒したのが、外国で出会ったあのフランス人の子爵(ししゃく)であったとしたら、彼は私の頬をなぐって、そのお返しに私から下顎を撃ち抜かれたのだが、私は陶酔を感じて、おそらくは、怒りを感じることはなかったに違いない。そのとき、私はそんな気がしたものである。
 こんなことを書くのは、この感情がいまだかつて私を全的に征服しつくしたことがなく、常に意識が全きままに残っていたことを、みなに知ってもらいたいためである。(しかり、すべてが意識のうえにこそ成り立っていたのだ)。そして、ときに分別を失うほどまで、いや、というより、滅茶苦茶なほどにその感情に支配されることはあったが、われを忘れるということは一度もなかった。それが私の内部で火のようになっていても、私は同時にそれを完全に支配することができたし、その絶頂で押しとどめることさえできた。もっとも、自分から抑(おさ)えようと思ったことは一度もない。私は生まれつき獣的な情欲をさずけられ、またつねにそれをかきたててきはしたが、一生涯、修道僧のように暮らすこともできただろうと確信している。私は、その気になれば、常に自分の主人であった。だから、知ってほしいのだが、私は環境とか病気のせいにして、私の犯罪の責任をのがれようとは思わないのである。》(江川卓訳、pp.667-669)

 繰り返すが、スタヴローギンが人に殴られるとき快楽を感じるのは、殴られても決して自分を見失うことがないという自分に陶酔しているからだ。「しかり、すべてが意識のうえにこそ成り立っていたのだ。」「私は生まれつき獣的な情欲をさずけられ、またつねにそれをかきたててきはしたが、一生涯、修道僧のように暮らすこともできただろうと確信している。私は、その気になれば、常に自分の主人であった。」と言うように、彼は自分を完全な支配下に置いていることに陶酔している。子爵との一件もおざなりに読むと同性愛的な感情の発露のように読めるかもしれないが、これもまた同じ支配欲の現れにすぎない。
 要するに、スタヴローギンは、私のいう「自尊心の病」、それも極度の自尊心の病に罹っているのだ。自尊心の病に罹っている者は、常に人より一枚上を行こうとする。だから、誰かから殴られても自分は平気だということを示すことによって、その殴っている者を見下げ、その者の一枚上を行くのである。
 これに対して、マゾヒストについてはさまざまな定義が可能だとはいえ、基本的には、ホーナイが言うように、強者への依存傾向が強く、自己評価の低い人物を指すと言えるだろう。要するに、人を人とも思わない、肥大した自尊心をもつスタヴローギンはマゾヒストの定義から大きく外れる。
 亀山がこのようにスタヴローギン=マゾヒストという間違いを犯したのは、ルソーの『告白』で述べられているマゾヒスティックな快楽をスタヴローギンと結びつけたからだ(『謎とき『悪霊』』、p.233)。それはあまりにも粗暴なこじつけだ。スタヴローギンはルソーではあり得ない。スタヴローギンの「告白」には、チホンによる、告白というものにはいつも滑稽なところがあるというルソーの『告白』からの引用があるが、それはそれだけのことだ。『悪霊』は芸術作品であり、『悪霊』を定義するのは『悪霊』だけだ。従って、スタヴローギンはルソーではあり得ない。だから、スタヴローギンがルソーと同じように自慰にふけっていたという亀山の「謎とき」も根拠のない妄想にすぎない。
 亀山の誤りは『悪霊』全体がスタヴローギンを定義しているということをいつも忘れているということだ。「告白」を含む『悪霊』をいくら読んでも、スタヴローギンがマゾヒストでありオナニストであるという事実は出てこない。『悪霊』の美を定義するのはルソーの『告白』ではなく、『悪霊』という作品全体なのだ。亀山のスタヴローギン=マゾヒスト兼オナニスト(=ルソー)説は、兼好法師の『徒然草』が三島由紀夫の『仮面の告白』を定義しているというのと同じだ。誰だって亀山は狂っていると思うだろう。
 ところで、亀山はこのスタヴローギン=マゾヒスト説を根拠にして、マトリョーシャ=マゾヒスト説を展開してゆく。つまり、マトリョーシャは鞭打たれる場面をスタヴローギンに見られていたので、鞭打たれながら被虐の喜びに泣きもだえていた、という仮説を亀山は展開してゆく。じつに下らない妄想で、こういうことを批判している私自身、自分でも情けなくなるが、もう少し我慢して批判を続けよう。(この項続く)