続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由
 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。
 「謎とき」とは何か。分かりきったことを言うが、「謎」とはむろん「意味・内容が分かりにくい・もの(こと)。解決がつかない・もの(こと)」(『学研国語大辞典』)のことだ。その謎を解くとは、分かりにくい意味や内容を明らかにするということだ。
 では、ドストエフスキーの作品に謎はあるのか。ある。無限にある。分からないところばかりだ。こういうことはトルストイチェーホフのような作家にはない。なぜ、ないのか。それは、トルストイたちが分からないところがないように書いているからだ。
 分からないところがないとはどういうことか。それはプロット(ストーリー[事実]を結びつける因果関係)に分からないところがないということだ。私はこのような小説に対して、バフチンのいう「モノローグ小説」という言葉を当てた(拙稿「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」参照)。これは私が勝手にバフチンドストエフスキー論をねじ曲げて作った理屈ではなく、バフチンの言わんとするところを敷衍すれば、そのように言えるというだけのことだ。
 一方、バフチンはこの「モノローグ小説」の対極にあるドストエフスキーの小説を「ポリフォニー小説」と名づける。このポリフォニー小説とは、やはりバフチンの言わんとするところを敷衍すれば、プロットがよく分からない小説、言い換えると、謎のプロットに満ちた小説ということになる。
 通常なら、こういう小説は下手くそな小説ということになろうが、ドストエフスキーの小説はそうではない。下手くそどころか、じつに巧みなのである。なぜそうなのかという謎を解き明かしたのがバフチンポリフォニー論なのだが、そのポリフォニー論を私なりに一言で要約すると、「ポリフォニー小説にはシニフィエ(意味されるもの)がない」ということだ。
 これはもちろん、分かりやすく言うために誇張した言い方をしただけで、ドストエフスキーの小説にもシニフィエ、つまり、事実と事実を結びつけるプロットはある。それがなければ小説は解体してしまう。しかし、それはバフチンも述べているように、最小限必要なものだけに限られるのだ。それ以外は、謎に満ちたプロットが小説全体を覆いつくしているのである。
 なぜドストエフスキーはそのような書き方をしたのか。それは私たちの生そのものが謎に満ちているからだ。漱石も慨嘆したように、私たちの生にはひとつとして解決のつく物事はない。すべてが未完であり現在進行中であり、謎に満ちているのだ。ドストエフスキーは私たちのこのような生をそのまま小説の中で反復しただけだ。従って、ドストエフスキーポリフォニー小説は本当の意味でリアルなのだ。これは通常の意味でのリアリズム小説ではない。私たちの生の見えない部分まで包含するリアリズム小説なのである。このため、私たちはドストエフスキーの小説を読むと腹の底から震撼させられるのだ。こんな小説は他にはない。
 だから、謎はそのまま謎として受け入れればいいのだ。ある人間がある振る舞いをしたからといって、いつもその理由が分かるわけではない。分かるときもあるが、大半はわからない。それを分かろうとすれば、私たちは強迫神経症に陥るだろう。だから、私たちは関西弁で言う「ええかげん」な生き方を選ぶのだ。
 だから、私はドストエフスキーを「ええかげん」に読むのだ。分かるところは分かればいいし、分からないところは放っておけばいいのだ。そのうち分かることもあれば、死ぬまでわかないこともあるだろう。それにこれはどうせ外国の、それも日本で言えば江戸時代から明治維新にかけての小説なのだ。いくら分かろうとしても分からないところがあるのが当然だ。それなのに、その謎を解く?あほらし、ばかちゃいますのん?
 その通り。江川・亀山コンビのやっていることはあほらしい。またそのあほに乗せられるあほがいるのだ。(この項つづく)