続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ありのままでいい

 前回、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、そして『悪霊』にスタヴローギンが登場した日はロシア正教の十字架挙栄祭で、旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。また、亀山のように、十字架挙栄祭が9月14日だということにすれば、当時のロシア人は腰を抜かしただろうとも述べた。
 しかし、じつは、そんなことはどうでもいいことだ。十字架挙栄祭が9月14日であろうと、9月27日であろうと、どうでもいいことだ。私は亀山の「謎とき」に付き合っただけだ。私には「謎とき」などどうでもいい。やりたい人は勝手にやってくれ、ただ、 専門家ぶって「謎とき」なんぞをやり、ドストエフスキーの読者を惑わすな、と言いたいだけだ。
 しかし、なぜ、十字架挙栄祭が9月14日であろうと、9月27日であろうと、どうでもいいのか。これまでの話で私がなぜそう言うのか分かる人もいるだろう。しかし、亀山の『謎とき『悪霊』』が読売文学賞をもらったということは、私がなぜそう言うのか分からない人が多いということだろう。だから、ここで改めて説明しなければならない。
 私がドストエフスキーの作品の「謎とき」に反対する理由は三つある。
(1)読者は作者ではない。
(2)作品全体が美を定義する。
(3)私たちはロシア人でもないし、帝政ロシアのロシア人でもない。
 (1)については、これまでほとんど説明してこなかった。これは説明しなくとも、常識のある人であれば分かるだろうと思ったからだ。つまり、読者は作者ではないのだから、作者があるテキストにどのような意味をこめて書いたのか分かるはずもない、と考えるのが常識というものだ。だから、自他の区別のつく常識のある読者なら、作者がこのテキストにこめた「謎」を解いてやろうなどとは考えない。そういう愚かな真似はしないで、「自分の全存在をかけてドストエフスキーと向き合う」だけだ。
 従って、常識のある人、つまり規範意識のある人、つまり死産児ではない人が世の中の多数を占めている場合、本来は、(1)で話は終わるはずなのである。ところが、憂うべきことに、この死産児に満ちた日本は江川・亀山コンビの「謎とき」ドストエフスキー論に読売文学賞まで与えた。このため、私は彼らの非常識なドストエフスキー論を常識でではなく、論理によって否定するため、(2)と(3)について述べなければならなくなった。
 ところで、(2)と(3)については、江川卓ラスコーリニコフ=666説を批判しながら、「「謎とき」シリーズがダメな理由(6)」で述べた。とくに(2)はこれまで繰り返し述べてきた。(2)が理解できる人にとって、江川・亀山コンビのドストエフスキー論が無意味だということは自明の事柄だろう。世の中がそういう人ばかりになれば、私はもう江川・亀山コンビのドストエフスキー論を批判してゆく必要がなくなる。しかし、どうもそうではないらしいので、これからも(2)については繰り返し述べてゆかなければならない。
 (3)については、ここでもう一度、先に問題にした十字架挙栄祭を例に挙げながら説明しておこう。
 『悪霊』のマリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、教会で十字架挙栄祭が行われていたということ、これはなるほど当時のロシア人読者にとっては自明の事柄であっただろう。だから、私は亀山説を斥け、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日は旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。
 しかし、私たち日本人にとってはどうか。その日が十字架挙栄祭の日だということが自明でないことは明らかだ。これは8月15日のお盆がロシア人にとって自明でないのと同じだ。また、私たちには、帝政ロシアのロシア人たちが共有する十字架挙栄祭に対してもつ感覚、つまり共通感覚が分からない。当時のロシア人たちは十字架挙栄祭が来たとき、どんな風に感じたのか、まったく想像がつかない。これはロシア人たちに、日本人が共有するお盆に対してもつ感覚が分からないのと同じだ。今や多くの日本人にとっても、お盆に対する共通感覚は失せてしまったらしいのだが。
 以上のことで何を私が言いたいのかといえば、十字架挙栄祭は私たちにとって無意味な記号であるということだ。だから、私たちは『悪霊』で、教会から十字架が運び出され、それに人々が接吻したという場面を読んでも、それが十字架挙栄祭だとは思わず、「当時のロシア人はこういうことをしたんだな。」と思うだけだ。それ以上の感情はもたない。
 それを、亀山のように、いや、そんな風に読んではだめだ、みなさんご存じないでしょうが、その日はじつは十字架挙栄祭だったのですよ、だから、十字架という姓をもつスタヴローギンの登場と深い関係があり、おまけにそれは9月27日ではなく9月14日だったのですよ、それはどういうことかというと・・・
 と説明されても、私たちの感情、いや身体がついてゆかない。なぜなら、私たちにとって十字架挙栄祭は私たちにとって無意味な記号にすぎないからだ。そんなことに「自分の全存在をかけてドストエフスキーと向き合う」ことはできない。これは日本人以外の非ロシア人にとっても同じだろう。さらに、ロシア革命を経た無神論者のロシア人にとっても同じではないかと想像する。これは現在のお盆が多くの日本人にとって無意味な記号になっているのと同じだろう。
 従って、私たちは実感をもって読めることだけを読めばいいのだ。実感をもって読めることとは何か。それは拙稿(「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf 直」)で述べたように、言葉の等質的な側面(事実の因果関係をあらわすプロットなど)と疑似等質的な側面(人間の理性や感情など)だ。詳しくはその論文を見て頂きたいが、人間の理性や感情などは、当時のロシア人と現在の日本人とでは異なるだろうと推測できるが、質的にはほぼ同じ(疑似等質的)だとも推測できる。なぜそう推測できるかといえば、私たちはドストエフスキーの作品を読んでいてその主人公たちに共感できるからだ。誤解して共感している場合もあるだろうが、小説を最後まで読めて納得できるのだから、私たちと当時のロシア人たちの理性や感情がそう違っていたとは思えない。だから疑似等質的だというのだ。
 一方、その論文でも述べたように、十字架挙栄祭やお盆というような言葉のもつ言語の質的な側面(共通感覚)は言語の壁を越えることができない。だから、そういう言葉は外国人にとって無意味な記号になる。そういう無意味な記号は読み飛ばすしかない。従って、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日が十字架挙栄祭だと知らなかったとしても、『悪霊』の私たちの読みには何の影響もない。また、読者はその日が十字架挙栄祭だと知らなかったとしても、恥じる必要はない。というより、恥じてはいけない。なぜなら、それこそが、ありのままの自分を作品の前に投げ出すこと、すなわち、「自分の全存在をかけてドストエフスキーと向き合う」ことに他ならないからだ。
 ありのままでいい、読むときも。