続・「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

(承前)
 これから亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』を批判してゆくのだが、本当のことを言うと、こういうことはやりたくない。なぜか。それは、たとえば江川のラスコーリニコフ=666説にせよ、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説にせよ、それを批判するのは私にとって苦痛そのものであるからだ。
 しかし、その苦痛を押しのけて批判する意味はある。その意味については前回も述べたし、「破滅に向かう日本人(承前)」ではもっと詳しく述べた。しかし、私は江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読むとまるでぬらっとした爬虫類に触れたときのような何とも言えない嫌悪感を覚える。「「謎とき」シリーズがダメな理由(1)」で引用した鬼束ちひろの歌のように、「こんなもののために生まれたんじゃない」と言いたくなる。
 この嫌悪感はなぜ生まれるのか。それは、彼らのドストエフスキー論が無意味そのものであるからだ。そこには善も悪もなく、ただただ不毛な言葉が羅列されているだけであるからだ。これはちょうどスタヴローギンの行為が不毛そのものであったのと似ている。少し説明しよう。
「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で述べたように、埴谷雄高江川卓亀山郁夫のような「死産児」は『地下室の手記』の主人公と同じように、他人の思想の寄せ集めからなる、紙でできた人間だった。彼らには善悪の基準というものがない。あるのは肥大した自尊心だけだ。
 ジラールが言うように、肥大した自尊心の持ち主は、常に他者の欲望を模倣し、その一枚上を行こうとする。以下はジラールの意見ではなく私見にすぎないが、そのモデルである他者が所有する善を模倣する場合もあれば、悪を模倣する場合もある。このため、肥大した自尊心の持ち主である死産児は、常に善と悪のあいだを振り子のように揺れ動くのだ。やはり死産児であったラスコーリニコフの姓そのものが「分裂(ラスコール)」だった。この姓によってドストエフスキーラスコーリニコフが死産児であることを暗示したのだ。これは謎ときではない。ロシア語が分かる者なら誰でも分かることだ。
 ところで、肥大した自尊心を鎮め、模倣の欲望を抑制するのは、ジラールが言うように、キリスト教圏においてはキリスト教倫理であり、主体の、神と一体化する無への運動がその模倣の欲望を抑制する。
 非キリスト教圏で生まれた私たちの場合はどうか。やはり同じだ、というのはジラールの考えではなく私見にすぎない。西郷隆盛などに見られるような日本の伝統的な倫理がキリスト教信仰と同じように働き、自尊心の暴走を抑制する。その伝統的な倫理はキリスト教圏におけるキリスト教倫理と同様、家族を始めとする中間集団によって保存され伝えられてきた。
 しかし、たとえば、もっとも重要な中間集団である家族、その家族のメンバーの心のつながりが失われ、ドストエフスキーのいう「偶然の家族」になるとすれば、そのような家族の子供は死産児になる。彼あるいは彼女には肥大した自尊心(=肥大した欲望)があるだけだ。親から伝えられる伝統的な倫理はない。このため彼らは『地下室の手記』の主人公のように自らの自尊心を満たそうとして、簡単に模倣の欲望に憑かれてしまう。
 たとえば、『地下室の手記』の主人公は、娼館では娼婦のリーザに愛にあふれたシラー風の熱弁をふるう素晴らしい善人になったかと思うと、彼のその熱弁を信じて彼の自宅にやってきたリーザの身体を求め、金を払って追い返す。彼には善悪の基準がない。だから、そんな風に善と悪に分裂した振る舞いが簡単にできてしまうのだ。彼は演技をしているのではない。これが彼の正体なのだ。
 死産児の心がこんな風に善悪に分裂するのは、繰り返すが、彼が誰かを模倣しているからだ。『地下室の手記』の主人公の場合、それがロマン主義者のシラーであったり、(誰かは特定できないが、たとえば)漁色者のカザノヴァであったりするだけだ。しかし、その模倣はいずれも、彼の中では一貫性のある行為なのである。何の一貫性か。それはもちろんモデルであるシラーやカザノヴァを模倣し、自分の自尊心を満たそうという一貫性だ。そこに善悪の基準はない。善だから模倣したのでも、悪だから模倣したのでもない。
 これは埴谷雄高江川卓亀山郁夫のような死産児たちの場合も同じだ。それぞれ程度の差はあるが、彼らにも善悪の基準はない。あるのは、肥大した自尊心だけだ。埴谷雄高は『死霊』という一種のドストエフスキー論によってドストエフスキーの「万分の一ミリ」でも上を行こうとし、江川と亀山はその「謎とき」シリーズによってドストエフスキー研究者たちの一枚上を行こうとする。彼らはそれが善だから模倣したのでもなく、悪だから模倣したのでもない。彼らはただただ自分の自尊心を満たそうとしただけだ。
 ここで誤解を避けるために急いで付け加えると、すでに述べたように、死産児と言っても、私たちの指紋がそれぞれ違うようにひとりひとり異なる。たとえば、「スタヴローギンと「広い心」」で述べたように、ドストエフスキーが創造した死産児の中でもっとも完璧な死産児がスタヴローギンだった。彼は自分の肥大した自尊心を抑制するものを完璧に欠いていた。すなわち、彼には、中間集団によって保存され伝えられてきたキリスト教的なモラルが完璧と言っていいほど身についていなかった。彼はどのような集団のメンバーとも心のつながりをもてないまま生きてきたのだ。そのような事態を彼は「無関心の病」と呼び、最後はその病のために自殺に追い込まれたのだった。埴谷雄高江川卓亀山郁夫のような死産児は、もちろんスタヴローギンのような、どのような中間集団にもコミットしなかった完璧な死産児ではない。彼らは家族を始めとする中間集団にある程度コミットしてきたのかもしれない。だから、スタヴローギンのように若くして破滅することもなく、たとえ借り物の常識であったとしても、ある程度常識を備えた社会人として生きることができたのだ。しかし、彼らの一連の仕事を見れば、彼らが常識を欠いた死産児であることは明らかだ。そのような死産児の仕事に関わるのは楽しいことではない。できることなら関わり合いたくない。
 さて、以上で私が彼らに感じる嫌悪感についての説明はおわり、亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』(新潮社、2012)を見てゆこう。彼が「偶然の家族」の出身であるか否か、私は知らない。また、なぜ彼が死産児になったのか、その理由も知らない。しかし、この『謎とき『悪霊』』を読めば、彼が死産児であることは誰の眼にも分かる。分からないとすれば、その人が死産児であるからだ。自分で自分の眼を見ることはできない。(この項続く)
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