親殺し・子殺し

 以前、精神に障害を抱えた三男の暴力に悩んだあげく、その三男を殺してしまった父親の記事(2014年12月4日付朝日新聞朝刊)を読み、どうして父親はそんな風に思い詰めてしまったのか、と不審に思った。そのあと、朝日新聞(2014年12月30日朝刊)に以下のような記事が出た。慰安婦問題以降、最近朝日新聞に対する批判が厳しいが、こういう、社会的弱者によりそった記事が書けるのは朝日だけだ。以下、朝日新聞からの引用。

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■娘は閉鎖病棟へ「これ以外に方法が・・・」
 「私たちも、ありとあらゆる苦難とともに生きています。娘を殺さなければ家族の誰かが殺されるか、巻き添えで死ぬことになるのではという恐怖とともに生きてきました」
 神奈川県に住む50代の女性は胸の内を打ち明けた。いまは20代になる長女が摂食障害を起こしたのは、14歳の時。その後、精神疾患の疑いがある、と医師に告げられた。学校に行けなくなり、入退院を繰り返した。16歳ごろからは暴力がひどくなり、女性に塩酸が原料の洗剤を飲ませようとしたり、夜中にわめいて暴れたりすることも増えた。
 「警察に連絡をすると、『またか』という対応をされ、それでも何度も呼びました。真夜中のサイレン、無線の音、近所の不審そうな目、いまでも忘れません」
 暴力がひどくなった時こそ、長女を入院させてほしかった。しかし、精神科医には「ベッドが空いてない」「本人の意思を尊重した方がいい」と断られることがほとんど。自分や他人を傷つけるなどの恐れがあると認定された時に強制的に入院させられる措置入院を警察に願い出たが、長女は警察官の前では落ち着きを取り戻し、「措置入院は無理です」と断られた。
 女性は精神病に関する専門書を何冊も読み、著者である医師のもとへも相談に行った。保健所にも相談した。しかし、解決策は見いだせなかった。「うちでは対応できません」と断られることも。暴れる長女を夫と2人で押さえつけながら、早朝に病院に駆け込む日が続いた。
 命の危険を感じ、家庭内暴力(DV)に関する相談所に駆け込んだこともあった。だが、DVの対象は配偶者やパートナーで、子どもからの暴力は対象外として、シェルターに入ることはできなかった。
 「子どもが暴れるのは親の育て方が悪いという土壌がある。だから、親が駆け込む先がないのではないでしょうか」「結局、家族が自らの命と引き換えに本人を引き取るしかない」
 長女は約7年前から自殺未遂を重ねるようになり、措置入院が認められた。現在は閉鎖病棟に長期入院している。女性は週に数回、長女の着替えなどを持ち、病院に通っている。
 しかし、入院への世間の目は厳しい、と女性は感じている。「体を拘束してかわいそう」「人権侵害ではないか」。そういう声を耳にする度に、ではどうしたらいいのか、と絶望的な気持ちになるという。
 厚生労働省は2004年、長期入院する精神疾患患者が多い現状を受け、「入院医療中心から地域生活中心へ」と精神医療の改革方針を打ち出した。ただ女性は「入院患者数の縮小を訴えるだけでは、家族は追い詰められる」と話す。まずは暴力を振るう患者を家族などから引き離し、保護する場所が必要だと考えるからだ。
 「娘を拘束するのはつらい。それでも、もし子どもが他の人を傷つけた場合、家族はつぐないきれない。これ以外に、娘を生かす方法がないんです」。社会の支援と理解が進まないなかで、家族は孤立している。女性は、そう感じてならないと語った。(塩入彩)

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 以上で引用は終えるが、記事を読んで不審に思うのは、「子どもが暴れるのは親の育て方が悪いという土壌がある。だから、親が駆け込む先がないのではないでしょうか」という言葉だ。「親が駆け込む先」、つまり、以上のような子供をもつ親を支える自助グループはなかったのか。そういう自助グループがあれば、おたがい相談を持ち寄ることができただろう。ほんとうにそういう「親が駆け込む先」はないのか、というのが私が記事を読んで不審に思った点だ。
 たとえば、私が昔やっていた、不登校児をもつ親の会では、以上のような子供をもつ親御さんも来られて、愚痴を言い、泣き言を言い、泣きわめき、それでも少しは心が慰められた。来られた親御さんからそう言われたこともある。このとき、その親御さんたちは、自分だけが苦しんでいるのではないと思うことができ、孤立感から抜け出すことができた。
 ただ、いま思い出しても悲しいことだが、不登校児をもつ親御さんの中に「不登校は病気ではない」と主張される方がおられ(それはその通りなのだが)、しだいに、不登校のあげく心の病気になった、あるいは心の病気のために不登校になった子供をもつ親御さんたちとのあいだに亀裂が生まれるようになった。
 人間の自尊心というものは恐ろしい。自分たちの主張の方が正しい、という意識から抜け出せない。あるときまで雑多なまま混じり合い、うまく機能していた私たちの会の中に、さまざまな意見が入り乱れはじめ、孤立した小さなグループが生まれはじめた。そして、私たちが計画立案した、奥地圭子さんなどに参加して頂いた、不登校と精神の病の関係を論じたシンポジウムの記録を出版する試みも頓挫した。なぜ、人は自尊心の病から抜け出せないのか。なぜさまざまな主張に寛容になれないのか。なぜ孤立しようとするのか。この事件以降、私は自尊心の病について考え続けている。
 孤立というものは恐ろしい。それが大人であれ未成年であれ、人は孤立すると、やけくそになり、すべてが許されていると思うようになる。たとえば、秋葉原通りを歩く人々をすべて殺してもかまわない、親を殺してもかまわない、子供を殺してもかまわない・・・と思うようになる。だから、それが誰であれ、苦しんでいる人を孤立させてはいけない。私は日本人がつくるタコツボ(閉鎖的集団)を憎むが、苦しむ人を支える自助グループのようなタコツボはいくらあってもかまわないと思う。しかし、今ではそんな自助グループも作れないほど、人と人の関係が疎遠になり不寛容になり、孤立した人を無数に生み出しているのか。
 このあたりのことが記事ではまったく書かれていなかった。最近の朝日の記事にしばしば見られる傾向だが、こういう尻切れトンボの無責任な記事は困る。ほんとうに「親が駆け込む先」はなかったのか。
 孤立すると、人はドストエフスキーのいう「死産児」になり、「悪」の担い手になる。だから、私たちがしなければならないのは、自分のエゴイズムを満たすためのタコツボではなく、苦しんでいる人を支えるタコツボをひとつでも多く作るということだ。これは一人ではできない。しかし、多くの人が協力すれば、ほんの少しの力でできることだ。
(2014年12月30日に投稿しましたが、私のミスで投稿が反映されなかったので、題名を改め、内容も一部加筆し、再投稿します。)