書評

書けることと書けないこと

一読し、著者に深い尊敬の念を抱きました。このようなことについては、書けることと書けないことがある。著者はその書けないことの限界まで書かれていると思います。ここに書かれているのは、いわゆる「共依存」には違いないのですが、その共依存から身をも…

澤地久枝

「みんな子どもだった」というテレビ番組で澤地久枝が自分の不倫の話をしているのを聞いて、中山あい子の小説「春の岬」を読んだ。これは澤地久枝と不倫関係になった有馬頼義とその夫人をモデルにした小説だ。中に小説の主人公である有馬夫人の親友の冨田夫…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ありのままでいい 前回、マリアとワルワーラ夫人が教会で会った日、そして『悪霊』にスタヴローギンが登場した日はロシア正教の十字架挙栄祭で、旧暦(ユリウス暦)の9月27日だと述べた。また、亀山のように、十字架挙栄祭が9月14日だということにすれ…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

タイム・テーブルの話 『謎とき『悪霊』』は107ページから「運命的な一日」と題して、ワルワーラ夫人とその息子ニコライ(スタヴローギン)の話に移る。このあたりの亀山の説明はいたって平凡で、『悪霊』を読めば分かることが述べられているだけだ。 た…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

ドストエフスキーの作品は「第二芸術」か 亀山の『謎とき『悪霊』』は446ページもある大冊だが、その最初の40ページで、『悪霊』が書かれた時代の説明、『悪霊』を書いていた頃のドストエフスキーの生活、『悪霊』第一部の粗筋、と言う風な順序で述べら…

続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

読者なのか作者なのか、はっきりしろ! 大学などで禄を食む文学研究者の書いた論文を読むと、しばしば、「それがどうした?」という気持になる。要するに、中途半端なのである。「あんたはこの作品を読者として読むのか、それとも作者として読むのか、どっち…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(8)

(承前) (2)マトリョーシャもマゾヒストではない 前回は亀山がいかに常識外れの読み方をするのかについて述べたが、今回もその続きである。 ただ、その前に、これまで亀山批判を行ってきた中で常に感じてきたことについて少し述べておこう。 私が大学や…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(7)

(承前) 亀山が『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房、2005)で述べたマトリョーシャ=マゾヒスト説については、まず「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 」で、次に「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」で批判した。その批判の根拠は「常識」…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

(承前) これから亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』を批判してゆくのだが、本当のことを言うと、こういうことはやりたくない。なぜか。それは、たとえば江川のラスコーリニコフ=666説にせよ、亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説にせよ、それを批判するのは…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

(承前) ドストエフスキーを「ええかげん」に読むというのは、亀山のように無茶苦茶に読むということではない。そこには厳然としたルールがある。そのルールの範囲内で「ええかげん」に読め、ということだ。そして、繰り返しになるが、「自分の全存在をかけ…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

マトリョーシャ=マゾヒスト説が無意味である理由 ドストエフスキーは芸術家であって、理論家でも時事評論家でもない。これは自明の事柄であるはずだ。ところが、この自明の事柄が無視され、「謎とき」が行われる。 「謎とき」とは何か。分かりきったことを…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

(承前) 「「謎とき」シリーズがダメな理由(5)」で述べたことだが、文学作品のテキストを創作ノートや同時代人の証言などを参考にしながら解釈するのは間違っている。作者の手紙を参考にするのもだめだ。なぜか。 それは自分で小説を書いてみればすぐ分…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

作品全体が美を定義する 江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んでいていつも思うのは、なぜ彼らはこんなに変なところばかり問題にするのかということだった。この疑問に対する答は「「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」(「死産児はいちばん大事な…

続・「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 前回掲げた学生用配布資料「スタヴローギンと「広い心」」はあくまで私の講義ノートの一部であり、じっさいの講義ではそのノートに対して口頭で補足を行いながら講義をすすめる。前回掲げた配付資料に欠けているのは、なぜスタヴローギンが善悪の区…

スタヴローギンと「広い心」

次の文章はここ十年ぐらい私が『悪霊』の講義(市民講座も含めた講義)のとき受講生に配布している資料です。私の講義ノートからの抜粋にすぎませんが、講義では、この配付資料にそってもう少し詳しく喋ります。ここは『悪霊』の中でももっとも重要な箇所の…

『翻訳の品格』

私は学生だった頃、もう題名さえ忘れたが、あるロシア史の翻訳を買った。しかし、そこに次々と意味不明の文章が羅列されているのに驚いたので、原文を取り寄せ、比較対照した。意味不明の箇所はすべて誤訳だった。初歩的な誤訳が大半だった。そこで、全部で…