出でよ、阿呆

 ヴェイユが言うように、この人物は「真実を語っているのか、そうでないのか」ということだけが重要だ。それ以外のことはほんとうにどうでもいいことだ。しかし、真実を語るためには、自分の生きている世界の共通感覚(常識)が分からなければいけないとともに、その共通感覚を乗り越えることができる存在(阿保)でなければならない。なぜなら、阿呆でなければ、常識に囚われてしまうから。また、常識が分からなければ、阿呆ではなく、ドストエフスキーのいう「死産児」(根無し草)になるだけだから。ドストエフスキーの作品には、阿呆と死産児があふれている。今の日本はどうだろうか。阿保はいるのだろうか。死産児はいたるところにいるように見えるが。以下、引用。

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 この世においては、辱しめの最後の段階におちこんだ人々、乞食の境涯よりもはるか以下におちこみ、社会的に重んじられないばかりか、人間の尊厳をなす第一のものである理性を欠いているとすべての人たちから見られている人々、こういう人々だけが、まさに真実を告げることができるのです。ほかの者はみな、うそをついているのです。
 『リヤ王』においては、この点はとくにはっきりしています。ケント公やコーデリアですらも、真実をおしちぢめ、軽くし、やわらげ、つつみかくし、真実を言わずにすむかぎり、もしくは、はっきりとうそを言わずにすむかぎり、真実に対してはいつもふらふらした態度でいるのです。
(中略)
 お母さん、この阿呆たち(「辱しめの最後の段階におちこんだ人々」のこと:萩原)とわたしとのあいだには、つながりが、本質的な似寄りがあるとお感じになりませんか、――高等師範学校を出て、教授資格をもち、自分の「知性」を人からほめてもらってはいるのですが。
(中略)
 学校とかなんとかは、わたしの場合には、皮肉(イロニイ)というより以上のものです。
 すぐれた知性というものは、往々一ぷうかわったところがあり、どうかするととっぴな行動に走りがちだということは、よく知られていることですし・・・
 わたしの知性をほめ上げたりするのは、「彼女は真実を語っているのか、そうでないのか」という問いをさけて通ろうとするねらいがあるのです。わたしの知性が評判になったりするのは、この阿呆たち(シェイクスピアの作品に出てくる道化のこと:萩原)に「阿呆」というレッテルがはりつけられているのと実際上は同じことです。ああ、このわたしも「阿呆」というレッテルをはりつけてもらうほうがどんなにいいでしょうか。(シモーヌ・ヴェイユ、「父母への手紙」、『ロンドン論集とさいごの手紙』所収、勁草書房

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一部修正しました(2014/09/07)。