なぜ書くのか

 わたしはなぜものを書くのか。これはものを書きはじめた頃からいつも自分に向けてきた疑問だった。それが何であれ、小説であれ論文であれ、ものを書くときにはいつも自分に「自分はなぜこれを書いているのか」と問いかけてきた。わたしにとって書くとは、なぜわたしはいまこれを書いているのかと問うことと同じだ。そしてその答が生活のため、義理のため、業績稼ぎのため、ということが分かれば、すぐ書くのをやめた。そんな風にして書いたものを読みたい者などいない。いるとすれば馬鹿だ。だから書くのは時間の無駄だ。
 「自分はなぜこれを書いているのか」という問に対する答として、わたしがいつも答としてあげたのは、自分は自分の虚栄心を満たすためにこれを書いているのである、ということだった。まずこれを認めなければ、それこそ虚栄に満ちた偽善者になり果てる。
 なにも書かないでひっそり死んでいけばいい。それなのに、虚栄がわたしにものを書かせるのだ。じつに愚かなことだ。
 このような事態を的確に述べているのが、『動物農場』や『1984年』という小説などを残したジョージ・オーウェルの「なぜ私は書くか」というエッセイだ。このエッセイでオーウェルは、作家が作品を書く四つの動機を挙げるのだが、まず、まっさきに挙げるのが「純粋のエゴイズム」という動機だ。彼のいう「純粋のエゴイズム」とは虚栄心のことだ。

 純粋のエゴイズム。賢い人だと思われたい、人の話題になりたい、死んでからも覚えていてもらいたい、子供のころ自分をばかにした大人たちを見返してやりたい、その他いろいろの欲望。こんなことが動機にならないなどというふりをするのは、ごまかしだ。それどころか、強い動機なのだ。作家は科学者、芸術家、弁護士、軍人、成功している実業家、つまり人類の表皮の部分の全体と、このエゴイズムという特徴を共有している。人間の大多数は、それほど自分のことに敏感ではない。三十くらいになると、彼らは個人的な野心を捨てる。それどころか、多くの場合、個人であるという感覚そのものをほとんど捨ててしまいさえする。そして、主として他人のために暮らしたり、単調な労働のなかにうずもれる。しかし、そのほかに、自分自身としての生を終わりまで生きようと決めている、才能に恵まれた、強情な人々も少数いる。作家はこのクラスに属する。本格的な作家は、全体として、ジャーナリストと比べてみて、金への関心は薄いが、もっと見えっぱりで自己中心であるといえるようだ。(『オーウェル評論集?』所収、川端康雄編、平凡社、2009、pp.110-111)

 オーウェルによれば、虚栄心が作家にものを書かせる。繰り返すが、わたしはその通りだと思う。ところが、この「純粋のエゴイズム」が自分にものを書かせているということを認めない作家がいる。
 たとえば、オーウェルは「純粋のエゴイズム」以外の、作家が作品を書くさいの残りの三つの動機として、「美的情熱」(美的経験を他人と共有したいという欲望)、「歴史的衝動」(後世のために本当の事実を述べておきたいという欲望)、「政治的目的」(他人の思想を変えたいという欲望)という動機を挙げている。
 あまりにも虚栄心が強い作家は、自分が作品を書くのは「純粋のエゴイズム」のためではなく、残りの三つの動機のいずれかのためだと言い張る。わたしは世のため人のために書いているのです、美しいものを後世に残すために書くのです、こういう真実を書かないで死ぬことはできない・・・云々。嘘をつけ、あなたは自分を大きく見せるために書いているだけだ。
 わたしがこう断言するのは、わたしたちはすべて人間であるかぎり、模倣の欲望に憑かれた存在であるからだ。模倣の欲望とは人より一枚上を行きたいという欲望であり、これは虚栄心の別名にすぎない。虚栄に囚われていない人間などいない。オーウェルが挙げているような種類の人々(作家、科学者、芸術家、弁護士、軍人、成功している実業家など)も、さまざまなかたちで、人より一枚上を行きたいという欲望に囚われているだけだ。もちろん、トルストイのように自分の作品が虚栄の産物であることに気づいて筆を折る作家もいるけれど、それは稀な例にすぎない。大半の作家は書くことによって虚栄心を満たそうとするだけだ。ドストエフスキーがこのような虚栄に憑かれた人々と異なるのは、書くことによって、徹底的に虚栄心を解明していったことだ。
 ものを書くとは、このように虚栄の営みだ。だから、ものを書くのはとても恥ずかしいことなのだ。だから、ものを書くとき知ったかぶりをしたり、自分を大きく見せようとしたりするのは、その恥の上塗りをすることだ。だから、ものを書くときは大言壮語などせず、謙虚でなければならない。これは自戒の言葉にすぎない。