なぜドストエフスキー論はカナリアなのか(補足)

 
 「カナリアとしてのドストエフスキー論」でドストエフスキー論はカナリアだと述べた。私のこの言葉を不審に思う人がいるかもしれない。なぜドストエフスキー論だけなのか。トルストイ論やチェーホフ論はカナリアにならないのか。そう問う人がいるかもしれない。そのような人はこのブログの「ドストエフスキー占い」、さらに、下品な題名で恐縮だが、「プロットの穴と尻の穴」いう記事を読んで頂きたい。そして私の言葉が信用ならないと思われるなら、さらに、拙稿「ドストエフスキーの壺の壺」を読んで頂きたい。これで、ドストエフスキーの作品に通暁し、健全な理性を備えておられる人なら、私の考えに賛成して頂けるに違いないと確信している。
 要するに、同じことを何度も繰り返すが、ドストエフスキーの作品を読むと、その読者がどのような人間であるかが分かるのだ。といっても、その読者が沈黙を守っておれば、どのような人間であるかは分からない。分かるのは、その読者が、「自分はドストエフスキーの作品をこんな風に読みました」と、読後、私に教えてくれる場合だ。だから、ドストエフスキー論を読むと、その著者がどのような人間であるのかが一瞬のうちに分かる。
 これがトルストイ論やチェーホフ論ではそうはならない。トルストイチェーホフの小説では、読者によって読み方にあまり差が出ない。人生経験の深浅によって読みにも深浅の差がでるだろうが、それでも基本的に大きな差は生じない。これはトルストイチェーホフがその小説で、自分の世界観をモノローグ(独白)的に表出しているからだ。このような小説をバフチンは「モノローグ小説」と呼んだ。一方、ドストエフスキーの小説では作者の世界観がモノローグ的に表出されない。その小説では、作者の思想がさまざまな登場人物に分け与えられ、その登場人物同士が対話を重ねるだけだ。このような小説をバフチンは「ポリフォニー(多声)小説」と呼んだ。
 たとえば、『カラマーゾフの兄弟』ではイワンのような死産児とアリョーシャのようなキリスト者が対話を行うが、自分がキリスト教を否定する死産児である読者Aはイワンに共感し、アリョーシャをいかがわしい存在と思うだろう。しかし、かつて死産児で無神論者であった経験をもつキリスト者Bはその二人の会話をともに了解するだろう。そしてAとBがドストエフスキー論を書くとすれば、それはまったく異なったドストエフスキー論になる。
 しかし、以上は「ポリフォニー小説」を読むときの読者の様態を図式的に説明しただけだ。詳しくは、拙稿「ドストエフスキーの壺の壺」を読んで頂きたい。
 ドストエフスキーの小説を読み、そのディテールについて解釈を下すとき、その読者の人となりは恐ろしいほど明確に暴露されるのだ。私はドストエフスキー論を読むと、その著者がこれまでどのような種類の罪を犯してきたのか、手に取るように分かる。いくら誤魔化そうとしても誤魔化せないのだ。だから、自分の罪を死ぬまで隠しておきたい人は決してドストエフスキー論を書いてはいけないのである。