スタヴローギンと「広い心」

 次の文章はここ十年ぐらい私が『悪霊』の講義(市民講座も含めた講義)のとき受講生に配布している資料です。私の講義ノートからの抜粋にすぎませんが、講義では、この配付資料にそってもう少し詳しく喋ります。ここは『悪霊』の中でももっとも重要な箇所のひとつです。私がこの配付資料で言いたいことは、配付資料の次の一節に尽きます。

自尊心の動きに無関心であるとは、自分の欲望が善悪いずれに向けられていようと無関心だということです。これが「すべてが許されている」ということです。このためスタヴローギンは、自分の自尊心を満たすために、さまざまな奇行を平然と行ってきたのです。

 しかし、このスタヴローギンがマトリョーシャのあの「顔」に出会うことによって、自分のこの無関心さに疑いを抱き始めるのです。また、マトリョーシャのあの「顔」が彼を自殺へと追いつめるのです。
 次回から亀山郁夫の『謎とき『悪霊』』の書評を行いますので、私の考えを明らかにしておくため、この学生用の配付資料を掲載するのです。すでに亀山のその著書を読まれた方は亀山の説明と読み比べて下さい。

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スタヴローギンと「広い心」

 スタヴローギンは首吊り自殺する直前、ダーリャへの手紙で次のように書いています。たぶんここは多くの人にとって『悪霊』の中でももっとも分かりにくい箇所だと思われますので説明を加えます。

 愛する友よ、私が推察したとおりの、やさしく心広い(великодушное:великодушие[広い心]の形容詞)女性よ!おそらくあなたは、私にあらんかぎりの愛を恵み、その美しい心の美しさのありたけを私に注ごうと空想し、その行為によって、ついに私の前に目的を指し示したいと望んでいるのではないだろうか?いや、あなたは用心されるほうがいい。私の愛は、私自身と同様に底浅いものであり、あなたは不幸になる。あなたの兄が言ったことだが、自身の大地とのつながりを失った者は、自身の神(「神々」と改訳:萩原)をも失う、つまり、自身の目的のすべてを失うという。何事につけても際限なく議論することはできるけれど、私の内部から流れ出たものは、なんらのおおらかさ(「おおらかさ」を「広い心」と改訳:萩原)も、なんらの力ももたないたんなる否定のみでしかなかったのだ。否定すら流れ出なかったと言えよう。いっさいが常に底浅く、生気がない。心広い(великодушный:великодушие[広い心]の形容詞)キリーロフは、思想(「自分の思想」と改訳:萩原)をもちきれずに、ピストル自殺してしまった。しかし、私の見るところ、彼が心広かったのは、健全な理性を失っていたからだと思う。私はけっして理性を失うことができないし、彼ほどに思想(「自分の思想」と改訳:萩原)を信ずることもできない。私はそこまで自分の思想に関心をいだくことさえできない。けっして、けっしてピストル自殺などできはしない!
 私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き捨てるべきであることを知っている。しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。私はそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞であるだろうことを知っている。心の広さを演じてみせるためだけに自己をあざむいてみて何になろう?私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。(ドストエフスキー、『悪霊(下)』、江川卓訳、2012、pp.636-637:以下の引用はこの江川訳から行う)

 この訳文の注釈でも述べていますように、ここでスタヴローギンが述べている「великодушное」とは「великодушие[広い心]」の形容詞形です。また、「великодушие」は「велико(大きな)+душ(魂)+ие(名詞形成接尾辞)」という仕組みからなる名詞です。これは、ふつう「寛大、寛仁、雅量」(岩波ロシア語辞典)という風に訳されます。しかし、この訳語では、その意味はほとんどわれわれには伝わりません。なぜなら、「ヴェリコドゥーシエ」という事態は、「砕かれた心」から直接発生する心の状態であるからです。
 たとえば、ソ連で発行されたウシャコフの「ロシア語詳解辞典」(1935)を見ますと、「ヴェリコドゥーシエ」に「私心のない譲歩、寛容、相手に対する悪い記憶をいつまでも持っていないこと、自分の利益を犠牲にできること」という説明が付いています。また、帝政ロシアで発行されたダーリの「ロシア語詳解辞典」(1881)では、「人生のあらゆる有為転変におだやかに耐えること、あらゆる侮辱を許すこと、いつも善意にあふれ善を行うこと」という説明が付いています。
 つまり、「ヴェリコドゥーシエ」というのは、不寛容、尊大、執念深さ、利己主義などという言葉の反対語で、主体が謙遜のうちにあること、主体が自己を作り出した存在(神あるいは造物主)と一体化しようとする無への運動の中にあることを意味します。従って、「ヴェリコドゥーシエ」(直訳すれば「広い心」あるいは「大きな心」)の持ち主になるためには、主体がまず自分の自尊心に気づき、その自尊心が砕かれる、つまり、何をおいてもまず主体が「砕かれた心」を持っていなければなりません。こうして自尊心が砕かれたあと、主体は新しい自己の中で無への運動を開始するのです。これが「復活」です。もちろん、不運にも、主体の自尊心が砕かれるだけで、誰の支えもなければ、それまでの自己(古い自己)の無意味さに耐えきれず、自死へと向かう場合もあるでしょう。しかし、そのような自死に至る場合があるにせよ、「ヴェリコドゥーシエ」を持つためには、まず主体の自尊心が砕かれなければなりません。
 ところで、スタヴローギンが自殺を恐れるのは、手紙で述べているように、自殺によって自分の「心の広さ」を示すことになるからです。言い換えると、自分には「広い心」(ヴェリコドゥーシエ)などない、自殺などすれば「広い心」の持ち主だと思われるだろう、だから自殺などできない、最後の最後まで欺瞞の中で生きるのはいやだ、ということです。これはどういうことでしょうか。
 この疑問に答えるヒントはキリーロフについて述べているスタヴローギンの言葉にあります。キリーロフは狂っていたとはいえ、自分のその人間中心主義的な人神思想に呑みこまれ自分の生命を犠牲にしました。つまり、このキリーロフのように自分が信じている何かのため、あるいは誰かのために自分を犠牲にできるということ、これが「広い心」を持っているということです。ここではウシャコフの「ロシア語詳解辞典」による「広い心」の定義、つまり「私心のない譲歩、寛容、相手に対する悪い記憶をいつまでも持っていないこと、自分の利益を犠牲にできること」という定義が当てはまるでしょう。スタヴローギンが恐れているのは、自殺すれば、このような「広い心」の持ち主だと思われるということです。
 では、スタヴローギンが自殺すれば彼は何のために自分を犠牲にしたことになるのでしょう。スタヴローギンにとっては、自らの命を犠牲にしてまで守るべきものは存在しません。従って、ここで彼は他人の目に映った自分の姿について述べているのです。つまり、自殺すれば、彼には命を犠牲にしてまで守るべき何かがあったに違いないと他人が思うだろう、と思っているのです。
 スタヴローギンがピョートルを始めとする周囲の人々に対してポリネシアの「マナ」のようなものを持っていることは明らかです。ジラールが言うように、「ポリネシアの世界で、あらゆるものが首長の、強い男のまわりに引き寄せられるのは、首長がほかの誰よりも多くの「マナ」をもっているからです(ルネ・ジラール、『世の初めから隠されていること』、小池健男訳、法政大学出版局1984、p.597)。その首長と同じようにスタヴローギンは「マナ」を持っています。なぜそんなことになったのか。それは、彼の人並み外れた美貌や身体能力、高貴な家柄や深い学識、さらに彼が相続するはずの巨額の富などがその理由になっていることはもちろんですが、それ以上に彼にカリスマ性を与えているのは彼の周囲に対する無関心です。彼は「告白」の中で、「無関心の病(болезнь равнодушия)」に憑かれていたと述べています(下:670:3)。また彼はその病について、先のダーリャへの手紙で「私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も」という風に説明しています。私たちが憤怒や羞恥、さらに絶望を感じるのは、自分の自尊心が誰かから傷つけられたときですが、自分は自尊心が傷つけられても平気だとスタヴローギンは述べているのです。事実彼は農奴の息子であるシャートフに拳で殴られても平気ですし(反射的に自己防衛のため相手に暴力をふるうのを回避するため、両腕を後ろで組みますが)(上:390:4-5)、ガガーノフの息子から無礼な手紙を受け取っても平気です(上:540:3-8)。彼のこのような超然とした態度が周囲の人々の模倣の欲望をかき立て、彼にカリスマ性を与えているのです。
 いずれにせよ、彼が自分の自尊心を傷つけられても平気で、常に周囲から超然としているように見えるのは、彼が「広い心」あるいは「砕かれた心」をもっているからではありません。彼が周囲から超然としているように見えるのは、その「無関心の病」のために周囲に無関心であるからにすぎません。このため彼は周囲の人々の模倣の欲望をかき立て、「マナ」を持っている人物のように誤解されたのでした。
 ところで、自分の自尊心に気づいている読者であれば、ピョートルたちのようにスタヴローギンによって模倣の欲望をかきたてられず、彼が「マナ」を持っていると思うこともないでしょう。そのような透徹した目をもつ読者から見れば、スタヴローギンが「広い心」の持ち主ではなく、「広い心」の対極にある強烈な自尊心の持ち主であることは明らかでしょう。彼はその自尊心によって多くの人々を傷つけています。
 たとえば、学習院を卒業したスタヴローギンは近衛騎兵連隊に入りますが、そこでさまざまな奇行を演じます。競走馬で人を踏みつぶすとか、上流階級のある貴婦人に対してけだもののような仕打ちに及ぶとか、理由もなく人に因縁をつけ侮辱し、そのため決闘を繰り返すというようなことを行います。また、「どういたしまして、わしの鼻面をつかんで引きまわすなんてできることじゃない」という口癖のあるガガーノフという人物の鼻をつかんで引きずりまわすとか、リプーチンという自尊心の強い友人の奥さんの腰を公の場で抱きかかえ、濃厚なキスを三度もするとか、スタヴローギンの奇行を見かねた県知事が彼に訓戒を垂れはじめると、そっとその耳元にかがみこみ耳にかみつくとか、彼はきりもなく奇行を繰り返してゆきます。
 このような一連の行動の中に私たちはスタヴローギンの強烈な自尊心、つまり、相手の一枚上を行って、相手をぎゃふんと言わせてやろうという心の動きを感じます。彼のこのような自尊心の動きが極点にまで達するのは、十二歳の少女マトリョーシャを誘惑し交わり死に追い込むときであり、愛してもいない足の悪い狂女のマリヤ・レビャートキナと結婚するときでしょう。私たちはスタヴローギンのこの行動に、当時のキリスト教道徳を共有していた人々を冒涜し、彼らの何枚も上を行こうとする強烈な自尊心を感じます。スタヴローギンが強烈な自尊心の持ち主であることは明らかなのです。
 しかし、それならなぜ彼は自分の自尊心が傷つけられても平気なのでしょうか。それは「無関心の病」のためです。彼はその「無関心の病」のため、自分や他人の自尊心がどのような振る舞いをしても――たとえ自分の自尊心が他人の自尊心に傷つけられても――平気なのです。要するに、スタヴローギンにとっては、自分にも他人にも「すべてが許されている」のです。従って、このような人物に善悪の区別はありません。このことを彼は先のダーリャ宛の手紙の中で次のように述べています。

・・・私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望もいだき、そのことにも満足感をおぼえる。しかし、そのどちらの感情も依然として常に底が浅く、かつて非常にのあったためしがない。私の欲望はあまりにも力弱く、みちびく力がない。丸太に乗ってなら河を横切ることができるが、木っぱに乗ってではだめだ。・・・(下線部は江川訳では傍点、下巻、pp.634-635)

 スタヴローギンは稚拙なロシア語を書いていると『悪霊』の語り手は言うのですが、手紙の意味は十分明らかです。しかし、この江川訳ではわざと非文法的に訳しているため、スタヴローギンの無関心の病が分かりにくいものになっています。手紙の稚拙さを残しながら次のように訳さなければなりません。

・・・私は以前いつもそうであったのと同じように、善を行おうと思うことができ、そのことで満足を感じます。それとともに、悪を行おうと思うこともでき、そのことからも満足を感じます。しかし、その善と悪の感覚は相変わらずいつもあまりにも微弱で、非常に、ということは一度もありません。私の善や悪を行いたいという欲望はあまりにも弱い。それは私を善や悪に導くことができません。丸太でなら河を渡ることもできるでしょうが、木っ端ではだめです。・・・

 この手紙で、スタヴローギンは自分が「善や悪を行おうと思うことができる」こと自体に満足を覚えると述べているのです。これは明らかに異常なことでしょう。私たちの大半は「善や悪を行おうと思うことができる」ことに満足なぞ覚えません。私たちはそんなことを思わないで、ただ善や悪を行うだけです。なぜスタヴローギンはそんなことに満足を覚えるのか。
 それは、スタヴローギンに善悪の区別がほとんどつかないからです。彼はこう言います。「善と悪の感覚は相変わらずいつもあまりにも微弱で、非常に、ということは一度もありません。私の善や悪を行いたいという欲望はあまりにも弱い。それは私を善や悪に導くことができません。丸太でなら河を渡ることもできるでしょうが、木っ端ではだめです。」つまり、スタヴローギンは自分の中に善と悪を行いたいという欲望があることはぼんやりと分かるし、そのことに自分は満足するが、その欲望はあまりにも弱い。このため、善いことも悪いことも行うことができない、と言うのです。要するに、スタヴローギンにおいては、善と悪がほとんど分化していないのです。これは先に述べたように、スタヴローギンが自分の自尊心の動きに無関心であるためです。では、自分の自尊心の動きに無関心であるとき、なぜ善悪が分化しなくなるのか。
 それはジラールが言うように「欲望と自尊心は同じもの」(ルネ・ジラール、『地下室の批評家』、織田年和訳、白水社1984、p.12)であるからです。ジラールが言うように、欲望とはすべてモデルである誰かの欲望のことであり、われわれはそれを模倣して自分の欲望とするのですが、その欲望それ自体に善悪の区別はありません。われわれはそれが善と悪いずれであろうと、モデルの欲望をそのまま模倣し、少なくともそのモデルと同等の存在、あわよくばそのモデルの一枚上を行こうとねらっているのです。これが自尊心の働きです。自尊心と欲望は同じものなのです。従って、自尊心の動きに無関心であるとは、自分の欲望が善悪いずれに向けられていようと無関心だということです。これが「すべてが許されている」ということです。このためスタヴローギンは、自分の自尊心を満たすために、さまざまな奇行を平然と行ってきたのです。
 しかし、そのようなスタヴローギンがなぜダーリャへの手紙で「善や悪を行おうと思うことができる」こと自体に満足を覚えると述べたのでしょうか。「すべてが許されている」と思うような人物にはふさわしくない言葉です。なぜなら、そのような人物は善悪を超えて自分の自尊心を満たすことができればそれで済むのですから。
 スタヴローギンがこんなことを言うのは、このダーリャへの手紙を書いていたとき(はじめに述べたように、それはスタヴローギンの自殺の直前ですが)、「すべてが許されている」ということに疑いを抱きはじめていたからです。言い換えると、彼はこれまで自分が自分の自尊心の動きにあまりにも無関心であったことにようやく気づいたのです。つまり、自分の自尊心が他者に取り返しのつかない暴力を加えていることに初めて気づいたのです。なぜ気づいたのか。彼にそのことを気づかせたのはマトリョーシャの顔でした。
 彼はマトリョーシャが自ら死を選んだことについては何の罪の意識も感じていないと思っています。それは誰かの好色な欲望を模倣しただけであり(犯罪者の多くが思うようなこと、「誰だってやっているんだ!」というようなことをスタヴローギンも思っていたのでしょう)、そんな自分の欲望、つまり自尊心の動きに責任をとるつもりはありません。まるで他人事のように、せいぜい自分の欲望の強さにあきれるぐらいでしょう。ある日、彼はフランクフルトの文具店でマトリョーシャにそっくりの少女の写真を買います。しかし、ホテルの部屋にその写真を忘れたままフランクフルトを発ちます。彼にとって過去などどうでもいいことなのです。マトリョーシャも彼にとってはどうでもいいことなのです。彼は忘れようと思えば、かんたんに忘れることができると言います。しかし、なぜか、彼はどうしてもマトリョーシャのあのときの顔だけは忘れることができないのです。
 あるとき、スタヴローギンはいかにもロシアの土壌から切り離された根無し草が見るような無責任な夢、自分で『黄金時代』と呼んでいたクロード・ロランの絵のごとき理想郷を夢に見ます。ところがその心地よい陶酔をさそうような夢を見た直後、彼はマトリョーシャの幻を見ます。江川卓の訳した「スタヴローギンの告白」をそのまま掲げます([ ]外の部分がドストエフスキーの生前刊行されなかった校正刷版で、[ ]内がその校正刷版にはなくてアンナ夫人の筆写版に入っている部分です)。

 私は目の前に見た!(おお、それは現ではなかった!せめてあれがほんものの幽霊であれば、[せめて一度なりと、あのとき以来、せめて一度なりと、たとえ一瞬、ほんの一瞬にもせよ、肉体をそなえた生ける女性として現われ、私が話しかけることができるのであったら!])私はマトリョーシャを見たのだった。あのときと同じように、私の部屋の戸口に立って、私に向って顎をしゃくりながら、小さな拳を振り上げていたあのときと同じように、げっそりと痩せこけ、熱をもったように目を輝かせているマトリョーシャを。いまだかつて何ひとつとして、これほどまで痛ましいものを私は目にしたことがない!私を脅しつけようとしながら(何によって?私に対していったい何ができたというのだろうか、おお、神よ!)、むろん、おのれひとりを責めるしかなかった、まだ分別も固まっていない、孤立無援の存在のみじめな絶望!いまだかつて、私の身にこのようなことが起こったためしはなかった。私は深更まで、身じろぎひとつせず、時のたつのも忘れてすわっていた。[私はいまこそはっきりと告白し、そのとき起こったことを完全に明確に伝えておきたいと思う。]これが良心の苛責、悔恨と呼ばれるものなのだろうか?私は知らないし、いまもってそう言いきることはできない。しかし、私にとって耐えがたいのは、ただ一つ、あの姿だけなのである。ほかでもない、[あの瞬間、それより以前でも後でもないあの瞬間、]小さな拳を振りあげて私を脅かそうとしていた、あのときの彼女の顔つきだけ、ほかでもないあの一瞬、顎をしゃくりあげていたあの姿だけなのである。[あの身ぶり――つまり、彼女が私を脅かそうとしたことが、私にはすでに滑稽なことではなく、恐ろしいことだったのである。私は哀れで、哀れでたまらなくなり、気も狂わんばかりだった。そして、あのときのことがなくなってくれるものなら、私の体を八つ裂きにされてもいいと思った。私は犯罪のことを、彼女のことを、彼女の死のことを悔やんだのではない。ただただ私はあの一瞬だけが耐えられなかった、どうしてもどうしても耐えられなかった、なぜなら、あのとき以来、それが毎日のように私の前に現われ、私は、自分が有罪と認められたことを完璧に知らされたからである。]それこそが私には耐えられない。なぜならあのとき以来、それはほとんど毎日のように私の前に現われるのだから。[いや、それとは知らず、以前にも耐えられなかったのだが。]それは自分から現われてくるのではなく、むしろ私が呼び出すのである。そして、それと暮らすことなどできるはずもないのに、呼び出さずにはいられないのである。おお、たとえ幻覚にもせよ、いつの日か彼女を現に見ることができるのであったら![私はせめてあと一度でもいい、彼女に自分の目で私を見てもらいたい、あのときのような、大きな、熱に浮かされた目で私の目をのぞきこんでもらいたい、そして知ってもらいたい・・・実現するわけもない、愚かな夢!] (江川訳、下巻、pp.693-695)

 このように、あのときのマトリョーシャの顔が無関心の病に憑かれた彼にさえ、明確に、しかし、一瞬のあいだだけ、自分の自尊心が相手に暴力をふるい、自分が罪人であることを教えてくれたのです。つまり、その顔が彼に「すべてが許されている」わけではないということを教えてくれたのです。このため、彼はダーリャへの手紙で「善や悪を行おうと思うことができる」こと自体に満足を覚えると述べたのです。言い換えると、マトリョーシャのその顔を思いうかべるときだけ、彼はそれまで遠くにあったこの世界が自分に近づくように感じ、この世界に生の手触りを感じます。この初めての生の感覚を味わうために彼はマトリョーシャのあの顔を自ら繰り返し思い出すようになります(「それは自分から現われてくるのではなく、むしろ私が呼び出すのである」)。しかし、そんな風にして一瞬彼女の顔を思い出すとき以外は、これまでと同様、世界は彼から遠ざかり、彼は無関心の病に苦しみ続けます。結局彼が自殺したのは無関心の病から癒えない自分に絶望したからです。マトリョーシャの死がなければ、彼はこれまでと同様、無関心の病に耐えることができたはずです。現実との手触りを教えてくれたマトリョーシャの顔が彼に無関心の病を耐え得ないものにしたのです。