一度でも

 一度でも手を抜いたらだめだよ。それを読んだ人は、もう二度ときみの書いたものを読んでくれないからね。
 四十年以上前、学生の頃、小島輝正から言われた言葉だ。当時、ある同人誌の編集をしていた小島が「原稿がない」と嘆いていたので、書きためていた小説のひとつを持って小島に持っていったとき言われた。自分でも出来の悪いものだと分かっていた。しかし、捨てる気にはなれなかった。うぬぼれていたというわけだ。
 小島の言葉は図星だった。わたしは赤面した。そのとき分かったことだが、小島は自分の気に入った原稿が集まらないので、原稿がないと嘆いていただけだった。
 それ以来、書くとき手抜きをしたことがない。思い違いで、手抜きのようになったことはあるが、それは自分が未熟だったということだ。そういう未熟さは無念さとともに思い返すことで、書いたことが無駄にはならなかった。
 昔は文学者なら、いや、文学者だけではなく、ジャーナリストでも、小島のように考えるのが普通だったように思う。それがいつの頃からか、平気で手抜きをする者が現われるようになった。平気で間違ったことを書き、それが間違ったことだと他人から指摘されても蛙(かえる)の面(つら)に小便(しょんべん)という風だ。厚顔無恥そのものだ。名前を売ることと金儲けしか頭にないのだろう。
 わたしはそういう人が書いたものは二度と読まない。でも、こういうことをしていると、同時代の文学者やジャーナリストで読みたい人が少しずついなくなる。そして、同じ本ばかり繰り返し読むようになる。書く者と読む者の関係も人間関係なので、信頼がなければ成り立たない。一度でもでたらめなことを書けばさようならだ。