『沖縄ノート』2

 次に引用するのは、左翼のあいだで悪名の高い藤岡信勝氏の発言だが、私はほとんど違和感を覚えなかった。ここから浮かび上がってくるのは大江健三郎氏の小説家としての想像力がその『沖縄ノート』を書かせたという事実だけだ。大江氏は一種の小説として『沖縄ノート』を書いた。そして、そこで、赤松氏への取材も現地取材もまったくしないまま、赤松隊長を住民に自決を命じた鬼のような隊長であるかのように描いたのだ。
 次のアイヒマンを赤松隊長に擬するところなど、子供じみている。赤松隊長がどのような人間であるのかも知らないまま、よくその二人を重ね合わせることができたものだと思う。これではデマを流す週刊誌以下の想像力だ。またその自己弁解も子供じみている。大江氏の小説の全体から私がこれまで受けてきた印象、つまり「子供じみている!」、という印象――これは良い意味でもあるし悪い意味でもある――が、この場面でも、さらに『沖縄ノート』でも反復されているのである。小説家としては面白い人物だが、社会的な発言をすべき人物ではない。あまりにも幼稚で身勝手だ。彼に比べれば、自虐史観批判で悪名の高い藤岡信勝氏の方がまだ大人なのである。(続く)

 大江氏は右の議論の補強を兼ねてもう一つの論点を持ち出した。『沖縄ノート』に、赤松隊長について「じつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったろう」(213ページ)という一節がある。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、イスラエル法廷で絞首刑に処せられたアドルフ・アイヒマンと同じ刑罰を求めたと読めるこの下りは、被告側に極めて不利な部分である。それを言い逃れなければならない。
 『沖縄ノート』は、ハンナ・アーレントの『イエルサレムアイヒマン』(みすず書房、1969年)に言及している。この本には「悪の陳腐さについての報告」という副題がついている。
ユダヤ人に対するあれほどの大罪を犯したアイヒマンは悪逆な人物と想像されるかも知れないが、実際は一介の下僚にすぎず、小心な平凡人にすぎなかったというのがアーレントの論点の一つである。
 主尋問で被告側代理人が「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」と質問したのに対し、大江氏は、「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」と答えた。大江氏は、これによって自分は隊長個人の資質を問題にしたのではないから、個人に対する名誉毀損にはあたらないと弁解したわけである。
 また、大江氏は、アイヒマンが自ら絞首刑になることによってドイツ青年の罪責感を取り除いてやろうとしたとし、日本青年には罪責感がないことを問題にしたのである、と独特の解釈を披瀝した。
 しかし、日本とナチをいっしょくたにするのは甚だしい誤りである。そもそも赤松隊長も日本軍も、いかなる意味でもナチと比肩されうるような罪を犯していない。だから、この話題は根本的に的はずれなのである。  
 右に記したように『沖縄ノート』の一節は、「赤松大尉はイスラエル法廷で絞首刑になったアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれて絞首刑になるべきであった」と理解するのが標準的な読みである。  
 作者が自己の作品についてあれこれ弁解的な解釈をして見せても説得力はない。作品は作者から独立した存在であり、読者の解釈にゆだねられるべき存在であることは今日の文芸学の常識である。

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