「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

離人症患者なのに
 この連載の第一回で「森はソシュール言語学の正しさを一生を棒に振って証明しただけだ」と述べた。ソシュール言語学によれば、というか、死産児ではなく、常識が損なわれていないとすれば誰でも分かることだが、われわれが言語の壁を越えることはできない。これについては拙稿(「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf 直」、p.40)で詳しく述べた。われわれに言語の壁が越えられると思う人は誇大妄想狂であり、異常な万能感に囚われているのにすぎない。
 森有正のように幼少の頃からフランス語を学びフランスで長年暮らしたところで、外国人に母語と外国語のあいだにある壁を越えることはできない。もっとも、須賀敦子のように自分はイタリア人みたいにイタリア語が分かると言う人もいた。これについては「名前について」で批判したが、私の推測では、須賀は亡くなったイタリア人の夫の言葉、「もうあなたの書くイタリア語を添削する必要はない」という言葉を誇大に受け止めたのにすぎない。夫は妻である須賀の書くイタリア語を「等質的」に、つまり文法的かつ文体論的に添削する必要はないと言っただけだ。それは、そのイタリア語を須賀が「質的」に了解できているということを意味しない。
 大事なことなので、「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」などの論文で繰り返し述べたのにも拘わらず、ここでも繰り返すが、外国語を読むとは、離人症患者のようになって読むということだ。離人症になると物を「質的」に感じることができなくなる。われわれは外国語を読むときも同じような状態に陥る。このことに無自覚な日本人の外国文学者があまりにも多い。このため、彼らは外国語の詩を、まるで母国語の詩を分析するみたいに分析する。その万能感がさらに誇大なものになると、さまざまな外国語の詩をあれこれ引用しながら、この詩句はこういう詩人の詩句から影響を受けている、と自信たっぷりに教えてくれる日本人までいる。
 離人症患者なのに、よくそんなことまでできるものだと呆れる。私たちは外国語を読むとき離人症患者になるのだから、そんな健常者がやるような一人前のことをしてはいけない。
 というようなことについては先の論文などでもかなり詳しく述べている。しかし、離人症になった外国文学者はあまりいないので、離人症の怖さも知らず、そういう誇大妄想に取り憑かれる者がときどき出てくる。江川や亀山などがそうだ。
 そういう外国文学者に離人症についてもっと詳しく知って頂くために、三十二年前、私が離人症から治りはじめたころ書いた文章(「森有正、そして小説について.pdf 直」)を載せておこう。まだ完全に治りきっていない状態で書いているので、非常に誤植が多い。同人誌なので、自分でゲラ刷りを直した。誤植が多いのは日本語の感覚が十分に戻っていないからだ。
 当時、日本語はもちろん、外国語を読むときなど、知っている単語であるにも拘わらず、理由の分からない不安に押しつぶされそうになり、辞書を引いてばかりいた。当時読んだロシア語や英語の専門書にはびっしりと日本語の訳語が書きこまれている。そういうことを知らないで、ときどきその本を貸してくれという人がいる。どうでもいいので貸してきたが、そういう人は今も私のことを低脳だと思っているだろう。たしかに離人症になると物を知らない人間みたいに見えるので、それは間違いではないのだが、それは物を知らないということではなく、物が分からないということなのだ。
 いずれにせよ、「森有正、そして小説について」を読んで頂ければ、質的に物を感受できないということが少しは具体的に分かって頂けると思う。その論文をここに掲載しようと思ったのは、離人症に悩んでいる人から、その論文を読みたいというメールが来たからでもある。その人以外にも離人症に悩んでいる人は多いのだろうか。そんな人の参考になれば幸いだ。(続く)