続・「謎とき」シリーズがダメな理由(8)

(承前)
(2)マトリョーシャもマゾヒストではない
 前回は亀山がいかに常識外れの読み方をするのかについて述べたが、今回もその続きである。
 ただ、その前に、これまで亀山批判を行ってきた中で常に感じてきたことについて少し述べておこう。
 私が大学や市民講座で行ってきた『悪霊』講義の受講生なら、一年あるいは半年かけてじっくり『悪霊』を読んでいるから、亀山の『悪霊』解釈がいかにひどいものであるかはすぐ分かるだろう。しかし、自分ひとりで一気呵成に初めて『悪霊』を読んだ人は、『悪霊』そのものが読めていない可能性がある。これは私自身にも経験があることだ。だから、そのような人には、亀山の『悪霊』解釈がどの程度ひどいのかということが分からないのではないかと恐れる。さらに恐れるのは、昔の私のような生意気盛りの死産児、人生のことを何も知っていない死産児が、亀山説を信奉してしまうことだ。彼らには私の言うことがほとんど分からないだろう。だから私を罵倒するのだ。
 というようなことを念頭において、これからも出来るだけ慎重に分かりやすく書いてゆくつもりだ。しかし、いかんせん、亀山の書くものはいつも一貫性がなく、未整理のままだ。このため、文脈を追って批判するのがきわめてむつかしい。ともすれば、亀山のその乱雑なペースに巻き込まれて、こちらも乱雑な書き方になる。できるだけそうならないようにしたいが、これもむつかしい。これは言い訳ではない。事実を述べているだけだ。
 さて、前回引用した亀山の文章の最初の部分をもう一度引用してみよう。

 問題は、オリジナルが不明であるアンナ版(筆写版のこと:萩原)に、なぜ「私がそこに立っていたからだが」という一節が紛れこんだか、ということである。ドストエフスキーが、この一行に、かなり意識的であったことは、この書きこみの存在そのものが裏づけている。そうでなければ、あえてこのような口実を添える理由はなかったにちがいない

 ここに「オリジナルが不明であるアンナ版」という亀山の言葉が出てくるが、ロシア語のできない読者はもうこれだけで亀山先生の言うことを信じるようになるだろう。ロシア語ができないので、亀山先生を信じるしかないからだ。ここに亀山の詐術がつけいる隙がある。少し説明しよう。
 亀山の「告白」解釈を批判してゆくのが困難な理由のひとつに、「告白」に三つの版、江川の使っている九十年以上前に出た初校版を含めると四つの版が存在するということがある。このため、ロシア語のできない読者は、亀山が正しいことを言っているのかどうか確かめる方法がない。これは素人が崩壊した福島原発を見ても、どこが悪くてそうなったのか分からないのと同じだ。このため、原発に詳しい技術者が正しくないことを言っても、素人には分からない。その技術者の言うことを信じるしかない。
 亀山の「告白」解釈も同じだ。亀山が間違ったことを言っても、ドストエフスキーにもロシア語にもうとい読者は批判のしようがない。また、ドストエフスキーも分かりロシア語もできる人間の集まった日本ロシア文学会には、亀山の友人である沼野充義たちによって亀山を批判できない空気が作られている。結局、表だって批判するのは木下豊房と私だけということになる。このため、亀山は木下や私の批判を無視すれば済む。
 話をもとに戻すと、スタヴローギンの「告白」は出版されなかったため、作者や編集者などの手が入ったいろんな版がある。どの版で読めばよいのか、ドストエフスキーにもロシア語にもうとい読者は不安になるかもしれない。そして、その不安をあおる亀山の言葉にそそのかされ、亀山の「告白」解釈を鵜呑みにするかもしれない。しかし、亀山にそそのかされてはいけない。また、不安に思う必要もない。「告白」の各版に基本的に大きな違いはない。従って、新潮文庫に収めてある江川訳を読み、私の「スタヴローギンと「広い心」」などを読めば、「告白」は十分理解できると思う。
 繰り返すが、「告白」を理解するために決して読んではいけないのは、亀山の翻訳と亀山のドストエフスキー論だ。その中でも、『謎とき『悪霊』』は決して読んではいけない。これを読むと、せっかく分かり始めた「告白」も『悪霊』も分からなくなるだろう。その理由については前回少し述べた。今回、その続きを述べてゆこう。
 先の引用文で亀山は、初校版にはなくてアンナ版にある「私がそこに立っていたからだが」という一節を問題にする。しかし、いくら読んでも問題にする理由が私には分からない。何度も読んだ私に分からないのだから、誰にも分からないのではないのかと思う。編集者も分からなかっただろう。と、言っても、私が何を言っているのか分からない人の方が多いだろう。少し詳しく説明する。
   *   *   * 
 前回も述べたが、江川が使っている初校版と亀山が使っている初校版は違う。江川のそれはアンナ版と同じで、「私がそこに立っていたからだが」という一節が挿入されている。この一節は、亀山のいう初校版にはない。版がいろいろあるので、こんなことになっているだけで、江川が間違っているわけではない。亀山が使っている初校版は次のようになっている。

マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかったが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。そしてそれからまる一時間、はげしくしゃくりあげて泣いていた。(亀山郁夫訳、『悪霊・別巻』、光文社、2012、pp.116-117)

 亀山は、この初校版に対して、アンナ版では(江川訳の初校版のように)「私がそこに立っていたからだが」という文章が挿入されていることを問題にしている。アンナ版では次のようになっている。

マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかった。むろん、私がそこに立っていたからだが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。(『悪霊・別巻』、p.288)

 亀山はなぜこんなことを問題にするのか。前回も引用した亀山の次の文章を私は何度読んでも理解できない。亀山はアンナ夫人が「私がそこに立っていたからだが」という文章を挿入した理由を次のように説明する。

・・・アンナ夫人は、なぜ、初校版に手を加え、「むろん、私がそこに立っていたからだが」という説明を加えたのか、ということである。想像するにこれは、アンナ夫人の作為であり、ペンナイフ紛失事件との関係で、恥辱的な快感に酔うマゾヒストとしての告白のくだりを削除したことに深くつながっていた。その流れからも、「私がそこに立っていたからだが」の副詞句は不可欠のものとなった。つまり、そのように理由を限定することによって、読者が余分な空想に走るのをブロックしようとしたのである。逆に、こうしてスタヴローギンが感じている何かについて、当のアンナ夫人自身がことさら想像を働かせたからと見ることができる。すなわち、この副詞句の解釈がけっしてあらぬ方向に誘導されないように手段を講じた、予防線を張ったということである。言いかえると、この『悪霊』全体から、スタヴローギンをマゾヒズムの関係性をできるだけ排除したい(排除すべきだ)との意図が働いた結果と見ることができる。なぜなら、アンナ夫人は、マゾヒズムこそは、スタヴローギンの人間としての復活にとって致命的な傷となることに気づいていたからである。

 この引用文の「ペンナイフ紛失事件との関係で、恥辱的な快感に酔うマゾヒストとしての告白のくだりを削除したこと」という一節については、前回の後半部で詳しく説明した。その説明を繰り返すと、その削除とは、アンナ夫人によって削除された次の二箇所のことだ。
 1)マトリョーシャ鞭打ち事件の直前、スタヴローギンがペンナイフを隠したこと。
 2)マトリョーシャの鞭打ちを見物したあと、悪の快感に震えながら過去の同様の快感を思い出す場面を削除したこと。
 要するに、アンナ夫人によって削除された箇所とは、前回の後半で引用した江川訳の《 》で囲まれている箇所、つまり引用全体を指す。
 要するに、亀山の意図をくめば、アンナ夫人は、スタヴローギンがマゾヒストであることを暴露するような場面をすべて削除したということだろう。前回述べたように、スタヴローギン=マゾヒスト説は間違いなのだが、いまそれには触れない。いまは亀山の言うとおり、スタヴローギン=マゾヒスト説が正しいということにしておこう。
 しかし、スタヴローギン=マゾヒスト説が正しいと仮定しても、亀山の、「私がそこに立っていたからだが」という副詞句を挿入することと、スタヴローギンがマゾヒストであることを暴露するような場面をすべて削除することが「深くつながっていた」という文の意味が分からない。
 その文に続けて亀山は続けてこういう。

その流れからも、「私がそこに立っていたからだが」の副詞句は不可欠のものとなった。つまり、そのように理由を限定することによって、読者が余分な空想に走るのをブロックしようとしたのである。

 「その流れ」とはもちろん、スタヴローギンがマゾヒストであることを暴露するような場面を削除した「流れ」ということだろう。しかし、そうだとすれば、なぜ「私がそこに立っていたからだが」という副詞句が不可欠のものになるのか。
 スタヴローギンがマトリョーシャの近くに立っているのは自明のことだ。だから、「私(=スタヴローギン)の目の前で」母親はマトリョーシャを鞭で打ったのだ。これはどの版も同じだ。従って、「私がそこに立っていたからだが」という副詞句があろうとなかろうと、スタヴローギンはマトリョーシャの近くに立っているのだ。だから、「私がそこに立っていたからだが」という副詞句を挿入したところで、「読者が余分な空想に走るのをブロック」できるわけではない。ここでいう「余分な空想」とはもちろんスタヴローギン=マゾヒスト説へと導く空想のことだ。要するに、マトリョーシャが鞭打たれているのを眺めながら、スタヴローギンがマゾヒスティックな喜びにひたるということだ。
 以上説明してきたように、結局、私には亀山が「私がそこに立っていたからだが」という副詞句を問題にする理由が分からない。亀山の文章に欠けているのは、私たちが共有しているはずの常識だ。その常識が欠けているので、私には亀山の文章が理解できないのである。一方、死産児には分かるのだろう。というより、死産児には論理もへったくれもないのだ。無論理であっても、雰囲気でなんとなく分かればいいのだ。
 私は以前亀山の『ドストエフスキー 父殺しの文学』を読んだときにも、これと同じような非常識であると同時に無論理に満ちた文章に出くわした。その二巻におよぶドストエフスキー論全体が意味不明なのである。『謎とき『悪霊』』も同じだ。どうしてこんな意味不明の著作に読売文学賞が与えられたのか。
 話をもとに戻そう。いずれにせよ、先の引用文で、何が何だか分からないまま亀山はマトリョーシャ=マゾヒスト説に突入する。そして先の引用文に続いて、こういう。先の引用文との「糊しろ」を残して引用しよう。

なぜなら、アンナ夫人は、マゾヒズムこそは、スタヴローギンの人間としての復活にとって致命的な傷となることに気づいていたからである。しかし、「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入は、かえって別の解釈に道を開くことになった。つまり、別の視点からのマゾヒズムの混入である。ここはわたしの妄想ということでお許しいただこう。マトリョーシャは、まさにこのとき、スタヴローギンがしきりに強調してきた「屈辱」のマゾヒズムを、つまり、あられもない屈辱の姿を見られることの快感を体のどこかで感じていた可能性がある。そしてこのように、マトリョーシャがマゾヒズムの快感に目覚めているという仮説を立てることで、『悪霊』の「告白」は、「陵辱」のテーマから別の次元のテーマへとスライドしていく。すなわち、「愛」のテーマである。同時代の法に照らしても、マトリョーシャにたいする行為を暴行ないし陵辱という観念でとらえられるかどうか、判断はむずかしい。しかし、ドストエフスキー=スタヴローギンは周到にも、マトリョーシャの年齢をあいまいに設定した。初校版で「十四歳前後」と書いたのは、スタヴローギンを、法の追及から免れさせるための一種の口実だった。逆に十四歳の少女のマゾヒズムという点に照らしていうなら、それこそ、マトリョーシャと同じ十四歳、「足の悪い」リーザ・ホフラコーワがいる。自殺もせず、殺されもせず、あたりはばかることなくみずからのサド・マゾヒズムの欲望を口にし、照れず、たじろがない十四歳の小悪魔・・・。

 この引用文から何とか分かる箇所を探すのだが、それが見つからない。
 まず、最初の「「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入は、かえって別の解釈に道を開くことになった。つまり、別の視点からのマゾヒズムの混入である。」という文章が意味不明だ。なぜ「「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入」が「別の視点からのマゾヒズムの混入」になるのか。スタヴローギンはずっとマトリョーシャの近くに立っていたのではないのか。それとも、別室でマトリョーシャの姿をモニター・テレビで見ていたのか。いや、冗談はよそう。スタヴローギンがマトリョーシャの近くで立っていたのは確かなのだ。だから、マトリョーシャが鞭打たれるのを見ていたのだ。何度も言うが、初校版に「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句が挿入されようがされまいが同じことだ。
 さて、引用文では先の箇所に続いて、亀山お得意のマトリョーシャ=マゾヒスト説が再び登場する。今回はひどく殊勝なものの言い方をしているが、結局は『『悪霊』神になりたかった男』と同じことを言っているだけだ。
 「ここはわたしの妄想ということでお許しいただこう。マトリョーシャは、まさにこのとき、スタヴローギンがしきりに強調してきた「屈辱」のマゾヒズムを、つまり、あられもない屈辱の姿を見られることの快感を体のどこかで感じていた可能性がある。」
 要するに、亀山が意味不明ながら「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入にこだわったのは、マトリョーシャがスタヴローギンに見られていることに快感を感じていると言いたかったからだ。『『悪霊』神になりたかった男』のときのように、いきなり、そういうことを言うと狂人あつかいされるから、「むろん、私がそこに立っていたからだが」という副詞句の挿入について意味不明の言葉を並べ、読者をごまかそうとしただけだ。非常識な死産児ならごまかされもしようが、常識を重視する非死産児には通じない。
 非死産児には「告白」のここまでの文章の流れを見れば、マトリョーシャ=マゾヒスト説が間違いだということは明確に分かる。マトリョーシャが声をあげなかったのは、スタヴローギンが見ていたので声をあげなかったのだ。だから、声を殺し、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃく」りもしたのだ。十二歳にもなるのに尻をたたかれているのが恥ずかしかったのだ。亀山はマトリョーシャが十四歳だと仮定しているが、それでも同じだ。マトリョーシャが恥ずかしがっていたことをスタヴローギンも承知していた。だから「告白」のそのあとの文章で、彼はこういう。

少女は泣いたあと、いっそう無口になった。私に対しては、悪感情をもっていなかったと確信している。もっとも、私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。(江川卓訳、p.669)

 もちろん、ここに淫靡な想像力をもつ読者がいるとすれば、マトリョーシャが鞭打たれる場面を、スタヴローギンのこのあとの彼女との性交の一種の前戯と見なすかもしれない。つまり、西洋の春画によくあるように、折檻のさいには子供に下着をおろさせるのが常であるから、マトリョーシャも下着を脱いで鞭で打たれたのだ。そして、スタヴローギンはそのマトリョーシャの下半身を見て勃起したのだ、という風に。品があるとは言えないが、このような想像には亀山説のような不自然さは何もない。そこまで書くのは不快だからドストエフスキーは書かなかっただけだ、と言っても、許されるだろう。しかし、この淫靡な想像も、あくまでスタヴローギンひとりのものだから許されるのだ。
 これを亀山のように、マトリョーシャは折檻されるのをスタヴローギンに見られていたから興奮し、マゾヒスティックな喜びに泣きもだえていたのだ、という風に解釈すると、それは常識外れになる。また、そんな人物は『悪霊』そのものが分かっていないことなる。
 死産児諸君、どうか、前回の江川訳「告白」からの引用文を何度も読み返してほしい。マトリョーシャは母親のひどい仕打ちに「ただ黙って目をむいているばかりだった」のだ。また、スタヴローギンのこすっからい小細工にも気づかず「従順な子供らしく、自分一人を責めていたよう」なのだ。ここを常識的に読めば、マトリョーシャが母親から濡れ衣を着せられ、鞭打たれながら、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた」理由が分かるだろう。マトリョーシャが泣いたのは、犯してもいない罪を着せられた悔しさのためなのだ。それ以外に解釈のしようがあるだろうか。亀山のように、マトリョーシャは鞭打たれながらマゾヒスティックな喜びに泣きもだえていると読むことは不可能だ。
 さらに、死産児諸君、『悪霊』を読み返してほしい。諸君はスタヴローギンがいまさらあばずれ女に惹かれると思うか。彼はそんな女にはもううんざりしているのだ。だから、マトリョーシャが鞭打たれながら、あばずれ女のように「もっと、もっと!」と随喜の涙を流すような少女であるとすれば、スタヴローギンはあわててその場から逃げ出したのに違いない。
 スタヴローギンはマトリョーシャが純真な少女であるからこそ、つよく惹かれたのだ。スタヴローギンと交わったあと捨てられ、「神さまを殺してしまった」とうわごとを言うほど純真な少女だったからこそ、スタヴローギンは誘惑したのだ。『悪霊』全体が定義しているスタヴローギンとはそういう男なのだ。だから、マトリョーシャがスタヴローギンの目の前で、被虐の喜びにふるえたはずがないのだ。亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説が成立するとすれば、スタヴローギンは女性であれば誰でもいい平凡な好色親父にすぎないということになる。この場合、『悪霊』は何を言いたいのか分からない二流以下の作品になる。そんな『悪霊』を誰が読むだろう。従って、スタヴローギンと同様、マトリョーシャもマゾヒストではない。つまり、二人のあいだに共犯関係は生じていない。