「謎とき」シリーズがダメな理由(4)

ソシュールが右翼?

 今から考えると、離人症から私が癒えはじめたとき、つまり「[file:yumetiyo:森有正、そして小説について.pdf]」で述べたような出来事が私に生じたとき、私は「自尊心の病」から癒えはじめたのだと思う。言い換えると、60年安保で逮捕された西部邁に徐々に生じたような出来事、一種の回心と言ってもいいような出来事が私においては一挙に生じたのだと思う。要するに、私は「現実」と和解したのだ。この和解は妥協とは違う。ドストエフスキーがシベリアで体験したように、また、西部邁が留置場とその後の赤貧の中で体験したように、私も自分の愚かさに気づいたのだ。このような事態をどう説明すれば人に分かってもらえるのか分からない。いや、分かってもらえるはずもないのだ。私はドストエフスキーの『死の家の記録』を読んで下さいというしかない。あるいは、思いつくまま、西部の次のような言葉を読んで下さいと言うしかない。西部は60年安保の同志であった唐牛健太郎の死にふれた文章の中でこういう。

 ・・・近年私は、極端をきらい、中庸とか節度をほしくなっている。だが、二五年前に過激派であった自分といま真正の保守派になろうと決意している自分はどこでどう折合いがつくのかという問題は当人にとってぬきさしならぬ事柄である。私は転向者の後暗さというものがとりわけ我慢できない。その後暗さは過去を消し去ろうとする隠微な営みからうまれる。そうならば自分および自分たちの過去を分析の俎上に乗せなければならない。
 もっというと、この問題の解答はおおよそ見当がつく性格のものである。つまり、保守もまた一種の過激な心性がなければつらぬきえない立場なのである。保守のかかえる逆説とは、熱狂を避けることにおいて、いいかえれば中庸・節度を守ることにおいて、熱狂的でなければならないということである。したがって昔も今も、少なくとも姿勢としては、私は過激であるに違いなく、とりあえずは、その一点に自分のインテグリティが吊されているのだと思われる。一貫性なしに生きられるほど私は強靱ではない。それゆえ、大仰にも聞こえようが、ブント(西部が属していた「共産主義者同盟」の略称:萩原)を忘却のなかから是非とも救い出さなければならぬと心を定めた次第である。(西部邁、『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』、文藝春秋、1986、pp.7-8)

 西部がここで「保守」と述べている事態と私が離人症から癒えはじめて気づいた事態は同じものだ。これはドストエフスキーがシベリアに流刑されて気づいた事態とも同じだ。ドストエフスキーはそのような事態を「土壌主義」というスラブ派でも西欧派でもない、思想とも言えない言葉で表現しようとした。「土壌主義」とは思想ではなく、彼の生に対する姿勢を言葉で表現したものにすぎない。それはロシアの有機的な生と伝統にたいする彼の敬意をこめた表現なのである。もちろん、これは政治的な思想ではない。スラブ派(保守派)や西欧派(革新派)の思想を現実からかけはなれた血の通っていない思想と見る思想なのだ。
 山本七平は、思想には右も左もない、正しい思想があるだけだ、と言ったが、ドストエフスキーや西部の思想は正しい思想であるにすぎない。どのような点において正しいのか。それは「共通感覚」は言語の壁を越えないという点において正しいのだ。これはソシュールの思想でもあるのだが、これについて私はこれまで「[file:yumetiyo:ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf]」や「[file:yumetiyo:ドストエフスキーと最初の暴力(承前)──共通感覚について.pdf]」で繰り返し述べてきた。もっとも、「共通感覚」が言語の壁を越えないというのは思想と言わなければならないほど大仰なものではなく、誰にも分かるはずの事実にすぎない。それをも思想という風に言わなければならないほど、私たちの「文学界」や「思想界」は混乱しているのだ。このような事態についてすでに小林秀雄は「疑惑1」(1939)できびしく批判したのだった。しかし、今も小林のいう「「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンド」に似た江川・亀山コンビのドストエフスキー論がもてはやされている。このような思想風土の中ではソシュールの思想さえ右翼の危険思想であるかのように指弾されかねない。これはドストエフスキーの「土壌主義」が今も文学事典では保守思想のひとつとして数え上げられ、西部邁が(どこまで本気なのか分からないが)自らを保守思想家と呼び習わしていることからも分かる。しかし、ソシュールの思想もドストエフスキーの土壌主義も西部の保守主義も、当たり前の常識にすぎない。これが常識として通じないところに現代日本の病根がある。(続く)