「謎とき」シリーズがダメな理由(6)

ラスコーリニコフ=666」説が無意味である理由

 芸術作品を受容するときに私たちが取るべき態度は、森有正の次の言葉に尽きている。

 どこでだったか、今ではすっかり忘れてしまったが、どこかフランス以外のところで、あるいはイタリアだったかもしれない、ぼくはある女体の彫像を見ていた。その作品はいくら見ていても倦きないほどぼくをひきつけた。ぼくは何度もそのまわりをまわった。ぼくには、その彫像の美しさにひかれると共に、そのひかれる根拠のつかめない焦燥の念があった。それで何度もそのまわりをぐるぐるまわり、終いに疲れてしまって、部屋の隅にあった椅子に腰をおろした。その瞬間にぼくは、自分が同じような経験を何度もしたことを思い出した。それは、ある時はカテドラルであった。ある時は一個の彫刻、ある時は一枚の絵であった。明るい太陽をうけて真自に輝くシャルトルの大伽藍、鳩の群がる外陣部のほうから斜めに見える実に密度の高い、しかも均整のとれたパリのノートル・ダムのうしろ姿、モンパルナスのアトリエにあるひなびてしかも高貴なプールデルのサント・パルプ。ルーヴルにあるアヴィニオンのピエタ、その他、数かざりない同じような経験がにわかによみがえってきた。
 そこには一つの共通した事態があった。限りなくひかれながら、そのひかれる根拠が深くかくされている、というその事態であった。その瞬間にぼくは、自分なりに、美というものの一つの定義に到達したことを理解した。それは、ぼくにとって、人間の根源的な姿の一つであった。それはそれで一つの理解ではあろうが、ぼくにとって一番大切だったのは、そういう数かぎりのない作品が、一つ一つ美の定義そのものを構成しているのだ、という驚くべき事態であった。換言すれば、一つ一つの作品が、「美」という人間が古来伝承してきた「ことば」に対する究極の定義を構成しているという事実だった(「霧の朝」)

 森がここで例として挙げている彫刻や絵の代わりに文学作品を挙げても事態は変わらない。形式は違うが、小説や詩などの文学作品も彫刻や絵と同様、芸術作品であるからだ。
 たとえば、私たちはドストエフスキーの『罪と罰』を読み、その完璧な美に打たれる。そして、森有正と同様、その美は『罪と罰』という作品全体によって定義されていると言うしかないと思う。それと同時に、江川や亀山の『罪と罰』に対する「謎とき」がその美と何の関係もない無意味な行為であると思う。なぜか。
 いや、『罪と罰』は例として適当ではないかもしれない。今や『罪と罰』を読み通す人は少ないだろう。
 そこで、江川と亀山の「謎とき」が無意味な行為であることを明らかにするために、誰にでもすぐ分かる例を取り上げよう。「「リアリティ」とは何か(2)」で文学的リアリティの説明のために例として挙げた西脇順三郎の「眼」という詩を再び引用する。

       眼
 
 白い波が頭へとびかゝつてくる七月に
 南方の奇麗な町をすぎる。
 静かな庭が旅人のために眠ってゐる。
 薔薇に砂に水
 薔薇に霞む心
 石に刻まれた髪
 石に刻まれた音
 石に刻まれた眼は永遠に開く。

 この詩の美しさはどこから来るのか。私は『罪と罰』を読むときと同様、その美が作品全体から来るのであり、それ以外からは来ないと確信する。この詩がもつ美は、この詩全体によって定義されている。それ以外に定義するものはない。
 私ではない他の誰かの説明を聞くことによって、その美は増すのか。それはあり得ない。なぜなら、それは他人がこの詩に感じた美についての説明にすぎず、私が感受した美ではないからだ。私がこの詩に感じる美は、私ひとりのもので、私がこの詩と出会うとき感受されるだけだ。
 私がこの詩の美を感受するためには、この詩を読むだけですむ。この詩の語句に対する説明や解釈は、この詩に雑音をしのびこませ、その美を損なうだけだ。だから、この詩には解くべき「謎」などない。あるのは、森有正が「ある女体の彫像」にひかれたときに感じたような、「ひかれる根拠のつかめない焦燥の念」があるだけだ。『罪と罰』についても同じことが言える。
 「眼」という詩や『罪と罰』に何の美も感じない読者はどうすればよいのか。それは「「リアリティ」とは何か(2)」で述べたように、読者にその美を感受するだけの経験が育っていないということにすぎない。だから、どうしようもないのだ。性的経験のとぼしい中学生に『白痴』のナスターシャの美しさが分からないとしても、どうしようもないのだ。誰かに教えてもらって作品に出会うことなどできない。自分の感受性と思想が育つのを待つしか作品に出会う方法はない。
 ところで、小説の読者の経験において中枢を占めるのが言語であることは言うまでもない。西脇の「眼」という作品が外国語に訳された場合、どんな風になるのか。残念ながら、それは日本人である私には分からない。日本人である私には日本語で書かれた「眼」しか分からない。私がここで分かるというのは「質的」に分かるということだ。詩の言葉は言語の壁を越えない。
 言語の壁を越えることができるのは「等質的」な言葉だけであり、中村雄二郎がいうように数字や概念だけが言語の壁を越える。いや、それさえも純粋に「等質的」ではあり得ない。たとえば、「4」という数字は日本語の「死」を連想させる。だから、拙稿(「[file:yumetiyo:ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf]」)で述べたように、結局、言葉の等質的な側面だけが言語の壁を越えるのである。そして、その言語の壁を越える等質的な側面は、翻訳されると、翻訳された言語の質的なネットワーク(森有正の言葉を使えば「神経系統」:「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」、p.26)に組み込まれ、原語とは異なるまったく新しいテキストとして生まれ変わる。これは電気製品のマニュアルであっても、「眼」のような詩であっても変わらない。当たり前といえば当たり前だが、要するに、翻訳されると、原語のテキストとはまったく異なるテキストになるのである。だから、文学作品の場合、その翻訳によって原作を云々することはできない。云々できるのは、言語の壁をすりぬけた等質的な側面だけなのである。また、原作を云々できるのは、その原作を原文で読むことのできるネイティブだけだ。ネイティブでない者は離人症患者として原作を読むのだから、原作のもつ質的な側面については云々できない。
 このような事態をたとえば、『罪と罰』に当てはめると、日本人である私たちはロシア語に関しては離人症患者と同じなのだから、『罪と罰』をロシア語で読もうが翻訳で読もうが、私たちに分かるのは『罪と罰』の等質的な側面だけなのだ。また翻訳というものは原作の等質的な側面だけを翻訳するのだから、「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」で述べたように、結局、正確な翻訳であれば、詩を除いて、翻訳であろうが原語で読もうが同じことになる。詩の場合、音声的な要素は等質的なので、この要素のみ言語の壁をすりぬける。小説の場合も、ツルゲーネフの作品のように詩的で音声的な要素があるとすれば、言語の壁をすり抜ける。しかし、それ以外の言語の意味的側面は原語の質的ネットワークに組み込まれているので、言語の壁をすりぬけない。
 以上から、江川卓が『謎とき『罪と罰』』で行ったような「ラスコーリニコフ=666」説のような「謎とき」は二つの点で無意味であることが分かるだろう。
 それがまず無意味なのは、森有正が述べているように、芸術作品の美(「価値」と言ってもいいだろう)は、作品全体によって定義されるのであり、部分によって定義されるのではないからだ。読者がかりに「ラスコーリニコフ=666」という事態を小説のうちに発見し(ロシア人であってもほとんどの人が発見できないだろうが)、ラスコーリニコフが名前に「666」という悪魔を意味する刻印を押された存在だとしても、その名前と本人の人格とがどのように関係するのかが分からない。たしかにラスコーリニコフは死産児であり、神の存在を否定する悪魔のような要素をもつ人物である。しかし、彼がマルメラードフ家の惨状に同情する能力をもつ慈悲深い人物であることも確かなのだ。このような自己の「分裂」(ロシア語で「ラスコール」)がラスコーリニコフという姓のうちにも現れているということは、ロシア人ならすぐ気がつくだろう。だから、「ラスコーリニコフ=666」という江川の発見は無意味なのだ。
 作品全体はラスコーリニコフが分裂した人間であるということを定義し、そのラスコーリニコフという姓を意味あるものにしている。しかし、江川の「ラスコーリニコフ=666」という発見では慈悲深いラスコーリニコフという側面が切り捨てられている。従って、江川のその発見は無意味な「偶然の一致」にすぎないとして捨てられるのだ。要するに、重要なのは作品全体によって定義される事態(この場合、ラスコーリニコフの分裂)なのであり、「ラスコーリニコフ=666」説はその事態にそぐわないため、たんなる偶然の一致にすぎないと見なされるのだ。
 次に「ラスコーリニコフ=666」説を無意味とみなすのは、「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」でも述べたことだが、江川が日本語という質的な言語体系の中で生きている日本人であるためだ。日本人である江川は離人症患者としてロシア語の『罪と罰』を読む。つまり、彼は『罪と罰』をロシア語の質的なネットワークの中で読むことができない。だから、「ラスコーリニコフ=666」説を発見したとしても、それがロシア語のネットワークの中でどのようなことを意味しているのか判断することができない。要するに、日本人である江川には「ラスコーリニコフ=666」説が新発見だという資格がないのだ。もしこれが本当に新発見だと思うのなら、ロシア人のドストエフスキー研究者の協力を得て検証する必要がある。江川がそのようなことをした形跡はない。
 以上で、江川卓ラスコーリニコフ=666」説が無意味であることが証明された。「ラスコーリニコフ=666」説以外の江川や亀山の「謎とき」についても、ほぼ同じようにしてその無意味であることを証明することができる。(終わり)