続・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

(承前)
 ドストエフスキーを「ええかげん」に読むというのは、亀山のように無茶苦茶に読むということではない。そこには厳然としたルールがある。そのルールの範囲内で「ええかげん」に読め、ということだ。そして、繰り返しになるが、「自分の全存在をかけてドストエフスキーと向き合う」。これしかない。
 だから、私はそのルールから逸脱して読む亀山のような読者には思い切り罵詈雑言を浴びせる。徹底的に浴びせる。立ち直れなくなるほど執拗に浴びせる。立ち直ってもらっては困る。そんな人間は、立ち直ると、また同じことをするからだ。馬鹿は死ななきゃ治らない。これがパスカルのいう「心が砕ける」ということだ。
 しかし、なぜそんなに罵詈雑言を浴びせるのか。大人げないではないか、そんな馬鹿は放っておけばいいではないか、と言う人がいるだろう。なるほど、それがドストエフスキーではない作家の作品の解釈をめぐる論争なら、私もそうするだろう。解釈など人それぞれだ。しかし、江川・亀山のやっていることは、ドストエフスキーの作品の価値をゼロにしようという試みなのだ。彼らのようにルールから逸脱するような読み方をすると、ドストエフスキーを読む意味がなくなる。だから、私は彼らに罵詈雑言を浴びせるのだ。
 そのルールとは何か。それは「ドストエフスキーの壺の壺.pdf 直」で亀山を罵倒しながら述べたように、常識(=共通感覚[コモン・センス])を守りながら読め、ということにすぎない。しかし、常識とは何か。
 さあ、今となっては、これを説明するのがむつかしい。と言っても、字句として常識を説明するのはむつかしくない。アリストテレスの共通感覚論から話を説き起こし、現代に至るまでの常識(=共通感覚)の定義を述べればそれでことはおわる。
 説明がむつかしいと言うのは、その常識が現代の日本ではしだいに通じなくなっているということだ。このことについては、山本七平の言葉を引用しながら「カナリアとしてのドストエフスキー論」以降の文章でも述べた。要するに、常識とは、私たちの中間集団が保存し伝えてきた「これだけはしてはならない」という暗黙のルールのことなのだが、現代の日本では、その中間集団そのものが家族を始めとして崩壊の危機にある。このため、常識の通じない、亀山のような「死産児」が世の中にあふれだしたのだ。だから、字句として常識を説明するのは簡単だが、死産児たちに常識の意味を分からせるのはむつかしいと言うのだ。しかし、私の希望的観測にすぎないが、まだ常識の分かる非死産児も少しはいるだろう。また自分が死産児だと気づいている人も少しはいるだろう。だから、そういう人々に向けてドストエフスキーを読むさいのルールについて述べてゆこう。そのルールを述べるために、亀山の『謎とき『悪霊』』を取り上げる。(この項つづく)