「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

死産児はいちばん大事なことを避ける

 埴谷雄高江川卓亀山郁夫など死産児が書くドストエフスキー論の特徴は、いちばん大事なことをわざと避けるようにしている、ということだ。いや、これは脇から見ると、そう見えるというだけで、死産児当人は避けているつもりはないだろう。しかし、脇から見ているとそう見えるのだ。なぜズバリといちばん大事なことに切り込まないのか。どうして江川は『謎とき『罪と罰』』で、ラスコーリニコフが666だとか、ペンキ屋のミコールカがザライスクの生まれだということを問題にするのか。どうして亀山は『『悪霊』神になりたかった男』でマトリョーシャが母親にむち打たれて喜んでいると言って、これは世界で初めての発見だ、と得意になるのか。どうして埴谷雄高はそのドストエフスキー論で、自分がドストエフスキーを万分の1ミリでも乗り越えることができるか否かということばかり問題にするのか。そんなことはすべて愚かしい児戯ではないか。どうして彼らはいちばん大事なことに目を向けないのか。
 私のいう一番大事なこととは、自分の全存在をかけてドストエフスキーと向き合うということだ。これ以外にドストエフスキーを読む意味はない。これこそ私の敬愛する小林秀雄森有正椎名麟三ミハイル・バフチンエマニュエル・レヴィナスなどがしてきたことだ。
 いや、これは後世の読者だけではない。ドストエフスキーの同時代の読者もドストエフスキーの作品をそんな風にして読んできたのだ。たとえば、トルストイは46歳の頃、自分が死産児(という言葉をトルストイは使わないが)であることに気づく。そして自らを地上から抹殺しようと自殺に傾斜するが、パスカルの『パンセ』を読むことがきっかけとなり、ようやく死産児である苦しみから抜け出す。その直後、『懺悔』(あるいは『告白』)を書き、『アンナ・カレーニナ』も含むそれまでの自分の作品をすべて虚栄の産物だと見なし、無価値なものだと断定する。この『懺悔』を書いていたとき、1881年2月、ドストエフスキーが亡くなる。そして、かつてはドストエフスキーの友人で、そのときはトルストイに心服していたストラーホフに、ドストエフスキーの作品を絶賛する手紙を書く。まだ未発表ではあったが『懺悔』で自分の全作品の価値を否定していたとき、トルストイはその手紙で、ドストエフスキーを自分の親友であると同時に師であるかのごとく絶賛するのである。
 トルストイドストエフスキーとはソロヴィヨフの講演会で一度同席したことがあるだけだ。それもドストエフスキーが同席しているとは知らなかったようだ。従って、トルストイドストエフスキーの作品に自己の全存在をかけて向かい合うことによって、ドストエフスキーを師であると同時に親友と見なしたのだ。
 このトルストイに、ストラーホフは、先生、そりゃ誉めすぎですよ、ありゃひどい男でね、と、ここぞとばかりドストエフスキーに対する積年の恨みを晴らす。ドストエフスキーが亡くなったあとストラーホフがこんなことを言ったのは、嫉妬にかられたためだけではない。それは彼が死産児でもあったからだ。ストラーホフはドストエフスキーの作品に自分の全存在をかけて向かい合うことができなかった。それができていれば、トルストイドストエフスキーに対して取ったように、ドストエフスキーの欠点などどうでもよいという態度を取っていただろう。これは私の推測にすぎないが、ドストエフスキーはストラーホフが死産児であったため、彼を信頼することができなかったのだ。ストラーホフがドストエフスキーを恨んでいたのは、このためだ。
 ところで、なぜ死産児だとドストエフスキーの作品に全存在をかけて向かい合うことができないのか。
 それは、死産児が紙で出来た人間であるからだ。彼らには血が通っていない。彼らは他人の思想の寄せ集めなのだ。だから、ここぞというとき、人の信頼を裏切り、人を幻滅させるのだ。彼らには本当の意味での善悪の基準がない。自分では気づいていないかもしれないが、心の奥底で彼らは、自分の欲望を満たすためなら何をしてもいい、すべてが許されている、と思っているのだ。このため追いつめられると、人の信頼を裏切るのだ。『こころ』の「先生」も、『地下室の手記』の主人公も、『罪と罰』のルージンも、ドストエフスキーが亡くなったあとのストラーホフも、彼らはここぞというときに人の信頼を裏切るのだ。だから、ドストエフスキーはストラーホフを信用しなかったのだ。彼らには山本七平のいう「最終的に何かをしないということ」、つまり善悪の基準がない。底が抜けているのだ。ドストエフスキーという作家は、生涯、「最終的に何かをしないということ」とはどういうことかについて考え続けた。このため、死産児はドストエフスキーの作品と正面から向き合うことができないのだ。私自身死産児であったとき、そうだった。ドストエフスキーの作品につよく惹かれながらも、正面から向かい合うことができなかった。だから、ドストエフスキーの作品から逃げてばかりいる死産児の気持が痛いほど分かる。(続く)