続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

「謎とき」シリーズという詐欺商法

 素直にドストエフスキーの作品を読めばいいものを、なぜドストエフスキーの読者の多くは江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズを買い求めるのか。それはドストエフスキーの作品が謎に満ちているからだ。「おれおれ詐欺」が子供や孫に弱い肉親の情愛につけこむように、詐欺師というものは私たちの弱点につけこむ。
 ドストエフスキーを読む私たちの弱点とは何か。それは、繰り返すが、ドストエフスキーの作品が謎に満ちているということだ。この謎をなんとか解きたい、と、じりじり思っているところに、ちょうどタイミング良く、江川・亀山コンビの「謎とき」シリーズが現れた。そこでドストエフスキーの読者の多くが「謎とき」シリーズに飛びついたのだ。もちろん「謎とき」の元祖である江川卓に詐欺を行っているという意識はなかっただろう。江川は狂気に囚われていただけだ。亀山はどうか。私は亀山ではないのでよく分からないが、亀山は模倣の欲望に憑かれているだけだと思う。江川を模倣して名声を獲得したいのだ。しかし、いずれにせよ、江川・亀山コンビが結果として詐欺を行ったことは明らかだ。その詐欺に読売新聞が賞を与え、「謎とき」という詐欺を社会的に正しい商行為として認定したのだ。
 ドストエフスキーの小説はなぜ謎に満ちているのか。それはドストエフスキーの小説が私たちの生をそのまま反復しているからだ。つまり、文字通りの「リアリズム小説」であるからだ。これについては「続・「謎とき」シリーズがダメな理由(4)」で説明した。また、「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」ではさらに詳しく説明した。その説明を簡単に反復しておこう。
 ソシュールの用語を比喩的に使って私たちの生を述べると、私たちは人生で「シニフィエ(意味されるもの)」の欠けた事態にしばしば遭遇する。たとえば、ある若い女性が髪にバラの造花を挿して教会に来たとしよう。彼女がなぜそんな造花を髪に挿しているのかは分からない。しかし、彼女が精神を病んでいると判明すれば、その「髪に挿したバラの造花」という「シニフィアン(意味するもの)」が「狂気」という「シニフィエ(意味されるもの)」に対応していることが明らかになる。正しいプロット(事実の因果関係)かどうかは分からないが、これでプロットが一応完結する。しかし、なぜバラの造花なのか。ああ、たまたま家にあったのを挿してきただけか。本当かな、どうかな・・・という風に私たちは考えるかもしれないが、私たちはそんなことにいつまでも頭を悩ませているほど暇ではない。次の瞬間、私たちの関心は別の事象に移っていて、彼女のバラの造花のことなどどうでもよくなっている。
 このような私たちの生においてしばしば見られる風景をできるだけそのまま小説に持ちこんだのが、ドストエフスキーの小説だ。だから、私たちの生が謎に満ちているように、ドストエフスキーの小説も謎に満ちている。通常の小説の価値基準から言えば、これはプロットさえ満足に完結させることができない、わけの分からないダメな小説ということになる。しかし、それがそうはならないのがドストエフスキーの小説の特徴だ。また、なぜそんな小説が可能なのかを探ろうとしたのが、バフチンポリフォニー論だ。バフチンは江川・亀山コンビのようにドストエフスキーの小説に現れた言葉の謎を解こうとしたのではない。つまり、髪に挿したバラの造花のような謎を解こうとしたのではない。バフチンドストエフスキーの小説の構造そのものを問題にしたのだ。そして、「ドストエフスキーの小説はポリフォニー小説である」という解を得た。この解を読者の立場に即して述べたのが、私の「[file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]」という論文だ。従って、以上で、「謎とき」シリーズは徹底的にその存在を否定されたはずなのである。だから、私にはもうこれ以上「謎とき」シリーズを批判し続ける意味はないのだが。