続・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

作品全体が美を定義する
 江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んでいていつも思うのは、なぜ彼らはこんなに変なところばかり問題にするのかということだった。この疑問に対する答は「「謎とき」シリーズがダメな理由(2)」(「死産児はいちばん大事なことを避ける」)で述べた。要するに、江川・亀山コンビのような死産児は、ドストエフスキーの作品に自分の全存在をかけて向かい合うことができないので、どうでもいいところばかりを論じるのである。これはマッサージにかかって、ツボではない妙なところばかり押さえられるのに似ている。そういうことをされると、かえって体調が悪くなる。江川・亀山コンビのドストエフスキー論も同じだ。彼らのドストエフスキー論を読むと、それまで分かっていたはずのドストエフスキーがかえって分からなくなる。そういう経験をした人は多いと思う。また、江川・亀山コンビのドストエフスキー論を読んで、自分の読みが間違っていたのだ、と間違った反省をする人もいると思う。だから、江川・亀山コンビのドストエフスキー論は罪が深いのだ。無用の混乱をドストエフスキーの読者のあいだに広げる。その良い例は、これまでにも紹介したことがあるが、一般市民によって作られている「ドストエーフスキイの会」での「亀山郁夫氏『悪霊』のマトリョーシャ解釈をめぐる議論」だろう。私は、木下豊房、冷牟田幸子両氏の意見に賛成だが、同時に、こんなことが議論になること自体、きわめて「ドストエフスキー的」だと思う。
 というのも、「なぜドストエフスキー論はカナリアなのか」などで、これまで繰り返し述べてきたことだが、ドストエフスキーをどう解釈するかでその人間がどのような人間であるのかが分かるからだ。これにさらに言葉を加えると、ドストエフスキーの読み方は十人十色なのだが、基本的なところで大きく二つの陣営に分かれる。死産児陣営と非死産児陣営に分かれる。
 死産児陣営の人々とは、スタヴローギンと同様、さまざまな中間集団を通過することによって伝統的なモラルを身につける、ということができなかった人々のことだ。キリスト教的な共通感覚であっても、日本に伝統的な共通感覚であっても、それは人間に共同生活を可能にさせる共通感覚であるから、その内実は根本的に異なっているとしても、少なくとも表面的には似たものになる。たとえば、旧約聖書十戒などはその大半が、表面的には日本の共通感覚として通用する。
 従って、その共通感覚の欠けたスタヴローギンが死産児であるということは、非キリスト教圏的で育った私たちにも分かる。これが「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語.pdf 直」で述べたことだ。キリスト教圏の共通感覚(あるいは常識)は言語の壁を通過するとき、日本的な共通感覚に変容される。それは偽物と言えば偽物だが、私たちにはそれしかキリスト教圏の共通感覚を了解する方法はない。
 これがイザヤ・ベンダサンこと山本七平のいう「日本教徒」である私たちの特徴なのである。山本が私たちに言いたかったことは、自分のやっていることを直視せよということだった。つまり、西洋のものを何でも日本風にしてしまう私たちの共通感覚を愚かなものとして否定するのではなく(共通感覚を否定し抹殺するのは不可能だ)、自分たちが何をやっているのかを正確に理解せよ、というのが山本の言いたいことだった。日本の共通感覚を嫌いフランスに逃亡した森有正も、晩年、結局、山本と同じ結論に達している。
 一方、日本の中間集団を通過することによって共通感覚を身につけることができなかった死産児たちは、スタヴローギンが死産児であることを理解することができない。このとき、「告白」をも含む『悪霊』全体が定義しているスタヴローギン像が理解できなくなり、スタヴローギンがマトリョーシャに何をしたのかも理解できなくなる。
 重要なのは、『悪霊』全体によって定義される、スタヴローギンがマトリョーシャに対して行った行為の意味だ。完璧な死産児であったスタヴローギンがしそうなことをスタヴローギンはしただけだ。つまり、キリスト教道徳の完全な否定、これだけだ。作者が書きたいのはそのことだけだ。スタヴローギンは幼き者を誘惑し、キリスト教で大罪として禁じられている行為を行ったのだ。
 ところが、亀山郁夫はそんな風に解釈しない。日本的共通感覚のある読者なら、マトリョーシャは母親から盗みの罪を着せられ、鞭打たれ、悔し涙にくれている、と言う風に理解する箇所を、亀山郁夫は別な風に解釈する。
 亀山によれば、鞭打たれながらマトリョーシャは、そばにいたスタヴローギンの眼を意識し、「もっとぶって!もっとぶって!」とマゾヒスティックな快感に酔いしれている、というのだ。要するに、亀山は、マトリョーシャがスタヴローギンに性的誘惑を行ったと解釈する。つまり、スタヴローギンは十二歳の少女の誘惑に乗せられただけであり、スタヴローギンは誘惑者ではないと解釈する。
 ということになれば、スタヴローギンの罪は消える。なるほど、そういうことなら、亀山の言うとおり、それは「『悪霊』全体、そしてドストエフスキー全体の読みを変えてしまいかねない「発見」」(亀山郁夫、『『悪霊』神になりたかった男』、みすず書房、2005、p.141)だということになるだろう。それならスタヴローギンは完璧な死産児ではなく、「悪いこととは知りながら」少女の誘いに乗り、性交を行ってしまった気弱な男ということになる。そして、マトリョーシャが自殺したのも、スタヴローギンに対する片思いが破れ、悲観したためだということになる。
 しかし、それなら、なぜ、その後スタヴローギンはマトリョーシャのあの「顔」を思い出して、激しく苦しむのか。自分に罪がないのなら、苦しむ必要もないだろう。また、そんな自分に罪のないことで苦しむことができるのなら、死産児とは言えない。意志の弱い、むしろ良心的な人物だと言えるだろう。ということになれば、完璧な死産児スタヴローギンを主人公にした『悪霊』は、何を言いたいのか分からない、大失敗作だということになる。そして、亀山はこの解釈を読売文学賞を受賞した『謎とき『悪霊』』でも繰り返すのである。(この項続く)