続々・「謎とき」シリーズがダメな理由(2)

ドストエフスキーの作品は「第二芸術」か

 亀山の『謎とき『悪霊』』は446ページもある大冊だが、その最初の40ページで、『悪霊』が書かれた時代の説明、『悪霊』を書いていた頃のドストエフスキーの生活、『悪霊』第一部の粗筋、と言う風な順序で述べられる。内容は誰もが知っているようなことだ。私は亀山の芝居がかった叙述より、グロスマンの『ドストエフスキイ』(北垣信行訳、筑摩書房、1966)のおだやかな叙述の方に信頼を置く。
 そのあと、亀山は主にモチューリスキーのドストエフスキー論に依拠しながら『悪霊』の制作過程を追って行く。亀山の紹介の仕方はじつにおざなりだ。『悪霊』の制作過程など、小説家でもない亀山本人にとってはどうでもいいことなのだから、そうなるのが当然なのだ。正確に『悪霊』の制作過程を知りたいと思う方は、翻訳された『悪霊』の創作ノートを直接読んだ方が精神衛生にもいい。それが面倒だという人は、亀山が種本にしているモチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』(松下裕、松下恭子訳、筑摩書房、2000)の第十七章「「悪霊」の執筆」(pp.441-472)を読めばすむ。モチューリスキーは『悪霊』全体を常に考慮に入れながら創作ノートについて述べているので、『悪霊』をすでに読み終えた人にとっては興味深い文章であるはずだ。もちろん、モチューリスキーは『悪霊』の「謎とき」をしているわけではない。『悪霊』を創作ノートとは一線を画した一個の芸術作品として見た上で、創作ノートを参考にしながら『悪霊』がどんな風に作られていったのかを述べているだけだ。要するに、モチューリスキーは前回私が述べた読者の立場を堅持しながら『悪霊』を読んでいるのだ。彼は創作ノートをドストエフスキーの伝記的資料として読んでいるのであって、亀山のように、創作ノートによって『悪霊』を解釈しようとしているのではない。
 亀山が創作ノートを紹介しながら同時に行っているマルクスのインターナショナルなどについての説明も中途半端だ。この程度の説明なら『悪霊』本文に付ける注で十分だろう。『悪霊』にとって重要なのは、亀山の中途半端な説明よりも、『悪霊』の中でマルクス主義のような無神論がもつ思想としての意味だ。しかし、その意味は『悪霊』全体を読めば分かる。分からないとすれば、その人は、亀山のようにマルクス主義と思想的に対決したことがない人なのだ。だから、マルクスの思想が分かるにしろ分からないにしろ、読者は余計な予備知識をもたないで直接『悪霊』を読んだ方が良い。良くないのは、亀山のインターナショナルについての説明を読んで、「ああ、ここは亀山先生の言っていたマルクスの話なのね」という風に、無神論の意味を考えないで読み飛ばしてしまうことだ。『悪霊』論は名所旧跡の案内書とは違う。
 『謎とき『悪霊』』は81ページ目から『悪霊』本文の紹介に入る。そしてここから前回述べたような、亀山による、作品と創作ノートなど作品外のテキストをちゃんぽんにした「謎とき」が始まる。亀山は江川卓と同様、ドストエフスキーの作品を独立した芸術作品と見ない。ドストエフスキーの作品に対して、作品以外の創作ノートや伝記的資料を使って解釈、つまり「謎とき」を行う。
 このような「謎とき」をしなければちゃんと読むことができないような作品とは、結局、芸術作品とは言えない。もう知っている人は少なくなっただろうが、桑原武夫は戦後すぐ、俳句のように作品外の事実などを補強して読まなければならないものを「第二芸術」と呼んだ。この意見が正しいか否かはともかく、桑原の言いたいことはよく分かる。つまり、俳句のような、その作品が作られた時代背景、作者の人間関係(師匠とか仲間との関係)、他の作品との影響関係、作者の伝記的事実などが分からなければ、解釈し価値判断することさえ不可能な芸術は、芸術として独立していないので、「第二芸術」、つまり芸術ではないということになる。要するに、俳句においては、森有正がいうような、作品が美あるいは価値を定義するという事態が成立しない。俳句の美を定義するのは、その俳句以外の要素なのである。
 ドストエフスキーの作品は俳句のようなものではなく、「謎とき」のようなことをしなくとも、いや、しない方がドストエフスキーの作品はちゃんと読めると私は思う。しかし、江川や亀山は「謎とき」をしなければ読めない、いや、した方がいいという。このため、彼らは「謎とき」を行うのだ。
 亀山はちょうど俳句を解釈するときのような手法をとりながら『悪霊』本文の紹介を開始する。
 亀山はまず「時代の気分」と題して、『悪霊』の時代背景を説明する。亀山によれば、当時、「終末の予感」が強まっていったということだ。その証左のひとつとしてフランチュークの『ロシアは天に雨乞いした』(2002)から引用する。しかし、その浩瀚な研究書では、古い文献を引用しながら、農奴解放後、分離派教徒やキリスト教分派が増加していったということが述べられているだけで、べつに終末論的あるいは黙示的な気分が強まっていったとは述べられていない。農奴解放後、政府からの締め付けがゆるやかになったため、ロシア正教会からの分派活動が活発になったということにすぎない。黙示的・終末論的な気分はロシアのキリスト教には常につきまとう特徴だ。その他、コレラの流行など亀山は終末論的な気分をかきたてる材料を並べて読者をペテンにかけようとしている。
 次に亀山は創作ノートを使って、ステパン先生(ヴェルホヴェンスキー)=グラノフスキー説、さらに前回述べた米国のロシア文学研究者、ミラーのステパン先生=ルソー説について述べてゆく。こういうところは、『悪霊』を独立した芸術作品と見る読者にとっては何の意味もない。そして亀山はスタヴローギンの「幻覚症」を根拠にして、彼がアルコール依存症に罹っているという。スタヴローギンがアル症患者なら、彼の奇怪な行動がすべてそれによって説明されることになる。これは中村健之介(『永遠のドストエフスキー――病という才能』)が、『地下室の手記』の主人公を自閉症患者だということによって説明したのと同じだ。こんな風に主人公をアル症患者や精神障害者だと説明すると、これでもう『悪霊』は芸術作品ではなくなる。そんなネタの割れた話など誰も読みたくない。そんな話を読むぐらいなら、アル症患者や精神障害者の手記を読む方がましだ。(続く)