「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに
 鬼束ちひろの「月光」という歌は、こんな風に始まる。

I am GOD'S CHILD(私は神の子供)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
こんなもののために生まれたんじゃない
(『やさしく弾ける 鬼束ちひろ/ピアノコレクション』、ドレミ楽譜出版社、2004(第2刷)、p.13)

 これこそまさに、今から四半世紀以上前、江川卓ドストエフスキー論(『謎とき『罪と罰』』)が読売文学賞を受賞し大衆の人気を博したとき、私が感じたことだ。こんなドストエフスキー論が通用するような腐敗した世界に生きていたくない。どうか、これが悪い冗談でありますように、と私は願った。ところが、その後、江川は『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』、『謎とき『白痴』』という風に、次々と「謎とき」シリーズを出版した。それと同時に、岩波文庫の『罪と罰』訳に『謎とき『罪と罰』』の内容の一部を注釈として付けた。そして江川は亡くなった。やれやれ、これで「謎とき」シリーズも終わった、と安堵のため息をついている間もなく、亀山郁夫が珍妙なドストエフスキー論を書き始め、とうとう『謎とき『悪霊』』まで書いた。そして、江川と同様、読売文学賞を受賞した。
 この賞の選考委員であると同時に亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳について「すらすら読める『カラマーゾフの兄弟』」と嘘を並べながら宣伝した沼野充義は、選評で次のように述べた。

『謎とき「悪霊」』は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によって新たなドストエフスキー・ブームに火をつけた亀山郁夫氏による本格的な『悪霊』論である。同氏は本書執筆と並行して『悪霊』の注目すべき新訳(光文社古典新訳文庫)を行っており、研究・翻訳の両面での精力的な仕事ぶりは圧倒的と言うしかない。
 本書は、伝記や時代背景の調査から、緻密なテキスト読解、深層に封じ込められた謎の解明に至るまで、あらゆる領域を視野に入れた研究書だが、読者を引きこみ、陶酔を誘う語り口が魅力的である。そして通説の一線を踏み越えるような、偶像破壊的な仮説も大胆に提示する。その結果、ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作になった。
 著者の師の世代のロシア文学者、江川卓の『謎とき「罪と罰」』が読売文学賞を受賞したのが、昭和61年度のこと。亀山氏はそれを引き継ぎ、一歩踏み越えた。ドストエフスキー読みはこうして続いていく。古い謎が解かれるとともに、新しい謎を生みだしながら。(沼野充義

 この選評で私が問題にするのは、亀山の『謎とき『悪霊』』が「ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作」であるということではない。亀山がドストエフスキーに匹敵する想像力をもつ作家であるとすれば、日本文学の将来のためにもけっこうなことだ。亀山にはドストエフスキーを超えるような作家になってもらいたい。
 私が問題にするのは、沼野の「亀山氏はそれ(=江川卓の『謎とき「罪と罰」』)を引き継ぎ、一歩踏み越えた」という言葉だ。
 結論から言うと、江川の「謎とき」シリーズを引き継ぐことができるのは愚か者だけだ。これについては、私はこれまで何度も説明してきた。しかし、沼野の言葉にも明らかなように、いまだ江川のドストエフスキー論が日本人読者にもつ威光は衰えないように見える。それだからこそ、沼野は江川のドストエフスキー論が今も日本の大衆に対してもつ威光を亀山にも分け与え、亀山に権威を付与しようとしているのだ。
 しかし、いったい、なぜ江川のドストエフスキー論が今も威光をもつのか。江川や亀山のドストエフスキー論が人気を博する時代背景について、私は「カナリアとしてのドストエフスキー論」という題で六回にわたって説明した。こんなことになったのは、死産児が今の日本に氾濫しているせいなのだ。しかし、死産児なら、なぜ、江川や亀山のドストエフスキー論を愛好するのか。それは彼らが「すべてが許されている」という思想をもっているからだ。では、なぜそのような思想をもっていると、江川や亀山のドストエフスキー論が好きになるのか、そこが分からない、教えてくれ、という人がいるかもしれない。自分では死産児だと思っていない死産児にはそういう人が多いだろう。だから、江川や亀山のドストエフスキー論に賞が与えられても不審に思わないのだ。
 そこで、ここでもう一度、江川や亀山の「謎とき」シリーズがなぜダメなのか、ということについて説明してゆこう。そのために、まず、江川卓ドストエフスキー論を誉めたたえる埴谷雄高の発言を取り上げよう。

世界初めての試み 埴谷雄高
『謎とき「罪と罰」』が江川卓によって書かれたとき、これほど多くの謎がこめられていたのかという衝撃波の多層性が、私達すべてを深く驚愕せしめたのであった。もはや書きつくされていたと思われるドストエフスキー論を思いがけぬ角度から領域拡大するこの試みは、世界でもはじめての探索であって、本国ロシアでなく、吾国からそれがなされたことは、吾国におけるドストエフスキー愛好の質の深さを物語っている。さて、『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』においては、『謎とき「罪と罰」』における黙示録の666の数字に対抗するかのごとく、3と13の数字が重い意味をもっていて、12人の少年使徒にかこまれ13年後に皇帝暗殺者となって十字架にかかるべきアリョーシャばかりでなく、無実の罪を担う情欲者ドミートリイも、生の渇望を呼ぶ大審問官イワンも、その位置を一変して、「カラマーゾフ万歳!」の少年達の唱和のなかに、ともに、昇華するのである。江川卓の謎ときは、負と暗黒をおった生と存在の昇華へ向かっての謎ときにほかならない。(江川卓、『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』、新潮社、1991、裏カバーに書かれた推薦文)

 なぜ最初に私は埴谷のこの発言を取り上げるのか。それは、この推薦文に現れている埴谷の「狂気」こそ、江川や亀山のドストエフスキー論を支える死産児たちが共有する狂気であるからだ。え?狂気だって?埴谷雄高が狂っている?冗談じゃない。埴谷は正常だよ。そんなことを言うあんたが狂っているのさ。そう言う人がいるだろう。そう言う人に、私はそう言うあなたこそ狂っているのだ、と言おう。埴谷の狂気は彼の次の言葉に明らかだ。

もはや書きつくされていたと思われるドストエフスキー論を思いがけぬ角度から領域拡大するこの試みは、世界でもはじめての探索であって、本国ロシアでなく、吾国からそれがなされたことは、吾国におけるドストエフスキー愛好の質の深さを物語っている。

 誰が読んでも、埴谷がこの発言によって読者に伝えようとしているのは、日本人である江川卓がロシア人研究者をリードする形で先端的なドストエフスキー研究を行っているということだ。要するに、埴谷によれば、江川のドストエフスキー論こそ亀山郁夫があこがれるような「最先端」なのである。私はこのような「最先端」こそ狂気だと言うのだ。そのことについて述べよう。
 と言っても、これまでと同様のことを述べるだけだ。このブログの読者の多くは「またか」と思うだろう。なぜなら、私はこれまで「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」「ドストエフスキーと最初の暴力(承前)──共通感覚について」で、森有正の言葉を引用しながら埴谷のような人々を批判してきたからだ。それにも拘わらず、今も埴谷のような狂気に憑かれた人は多い。狂気に憑かれた死産児は、まさか自分が狂気に憑かれていると思わない。だから、今回も無駄骨になるかもしれないが、私は常識(「これだけは絶対しない」という常識)を言い続けるしかない。
森有正の冒険
 東大助教授であった森有正第二次世界大戦後、フランスに留学し(1950)、そのままパリにとどまる。そして、東大を辞め、日本に残した家族とも別れ、翻訳や通訳で生計を立てる。なぜそんな無謀なことをしたのか。それは、森によれば、もはや日本に帰ってフランス語を読んだりフランス哲学を教えたりすることができなくなっていたからだ。
 森は、子供のときからフランス語を学び、東大でフランス哲学を教えていたのにも拘わらず、フランス語というものがさっぱり分からなかった。自分で分かったという実感をもつことができなかった。このため、森はフランス語が分かるようになるまでフランスにとどまろうとしたのである。
 1958年の「パリ 12月26日(金)」という場所と日付の入った日記で森は次のようにいう。

 語学の恐ろしさは、それについての自分の能力が公平に客観的に計量できないことである。どんなにこの点でペシミストになってもなりすぎることはない。語学は機械的に進めるほかはない。自分に対する評価はいっさい禁物である。言葉は、誰でも人並みにできると思っている。これは外国語の場合殊に危険である。仏語の小学読本巻一を本当に読む能力のない人間が、フランスの一流のジャーナリストととにかく話せると思っている。そして外国生れの外国人の場合、十年フランスにいても、小学読本巻一の能力もないのが普通である。僕は小学一年の能力さえなくても、幼稚園程度でも、少しずつ進まなければならない。問題は、フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になることである。そのとき「もの」は新しい生命を露わす。そこに新しい世界が啓示されはじめる。どんなに分量において僅かでも、この一点が破れればよいのである。あとは子供の様に学ぶだけである。それは翻訳とか解釈とかからはもっとも遠い世界である。そんなことは、「もの」の真の姿を覆い隠すだけである。そういうものには一文の価値もない。僕はもう今から四十年も前、暁星学校でフランス語を習いはじめて、今になってこのことに気がついたことを本当に嬉しいと思う。そのことは僕の生活を二重に豊富にしてくれる。日本語は日本のため、フランス語はフランスのため、というのは、僕の場合当たらない。双方は交錯し合い、そこには翻訳と全く質のちがう関係が、「もの」が等価値となった言葉によって啓示される面が交錯する、という「もの」そのものの内部的関係において、両者が結合する。それは翻訳というものにも、新しい次元から新しい意味を賦与することになる。どんなに困難でもこの点に徹底しなければならない。言葉ということの意味については、更めて考察しなければならない。ただ僕は古代の日本人が中国語を学んだ仕方を大変面白いと思っている。それは僕が今述べたところとは別の事であるが、全く無関係ではない。(「 」は原文で傍点)(森有正、『バビロンの流れのほとりにて』、筑摩書房、1970(初版第7刷)、pp.344-345)

 ここで森が述べている次の言葉に反論できる人がいるだろうか。
 「仏語の小学読本巻一を本当に読む能力のない人間が、フランスの一流のジャーナリストととにかく話せると思っている。」
 「外国生れの外国人の場合、十年フランスにいても、小学読本巻一の能力もないのが普通である。」
 要するに、私たちは外国語を読むとき、離人症患者のようになる。つまり、離人症患者のように、その外国語を「等質的」に理解することはできるが、「質的」には理解できない。言い換えると、言葉に対する実感がまったく伴わない。これについては「ドストエフスキーと最初の暴力(承前)──共通感覚について」で詳しく述べた。その一部を引用しよう。私は小林秀雄の「疑惑1」(1939)での日本の翻訳文化批判を紹介しながら、次のように述べた。ここで小林がいう「実際の事物」が先の森のいう「もの」なのである。

 このあと小林は当時人気のあった「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンドのことにふれながら、現代日本文化のいかがわしさについて述べる。要するに、小林にとって、日本の「文学界」と「思想界」がやっていることはその漫才師たちの軽薄きわまるドタバタ喜劇と同じなのだ。ここで小林がやり玉にあげている「文学界」「思想界」とは、「外国文学および思想」を輸入することによって成立している日本の「文学界」と「思想界」のことだ。また、小林によれば、その「文学界」と「思想界」の人々は外国産の思想によって架空の世界を作り上げるのだが、その世界は日本の「実際の事物に絡み附いて」いないので、まったく信用できない。
 小林のいう、このような無法状態は、今も日本の「外国文学および思想」業界で続いていると言えるだろう。最近は日本でも企業の内部告発がさかんに行われるようになり、建築業界や食品業界などのモラルに反した偽装工作が明るみに出されている。しかし、「外国文学および思想」業界では、誤訳指摘が行われる程度で、それ以上偽装工作が暴露されることはない。これは業界ぐるみで偽装工作を行っているからだ。ときには小林秀雄森有正などがその偽装工作を摘発するけれど、馬耳東風という風に無視されてしまう。というような事態が、少なくとも明治維新によって西欧の文学や思想が輸入され始めて以来、日本では繰り返されている。
 こんな風に偽装工作が反復されているのは、繰り返すが、小林によれば、西洋から輸入される思想が、日本の「実際の事物に絡み附いて」いないためだ。要するに、その思想は日本人の共通感覚とは無縁のものだ。たとえば、私が前稿で挙げた例で言うと、英語の「love」という言葉に対応する「実際の事物」は日本にはなく、フランス語の「amour」という言葉に対応する「実際の事物」も日本にはない。そしてその二つの外国語をとりあえず「愛」と訳したところで、「love」や「amour」に対応する「実際の事物」が急に日本に出現するわけではない。翻訳者は手品師ではない。ないものを取り出すことはできない。従って、私たちが西洋の「思想の信用できる姿を直覚するという事は、大変難しい」。
 すでに述べたように、これは私が離人症のとき日本語のテキストを読んでいたときと同じだ。読むテキストが外国語と日本語という違いがあるだけで、言葉を質的に感じることができないのは同じだ。外国語を読むとは、私たちが一時健康な人間であることをやめ、離人症患者になって読むということだ。それはとても苦しい。だから、英語の勉強が嫌いだという子供の気持が私にはよく分かる。まだ日本語の共通感覚も十分身につけていない子供に外国語を教えるなどというのは虐待するのと同じだ。心身の発達に良いはずがないだろう。もっとも、これはすでにドストエフスキーが『作家の日記』、そして『悪霊』の登場人物の口を借りて述べている考えなので、次稿で詳しく述べよう。(拙稿、「ドストエフスキーと「最初の暴力」(承前)」、pp.128-129)

 森有正は自分でも認めているように、小林秀雄から大きな影響を受けた人物であり、フランスに渡った森が小林のこの日本文化批判の影響下にあるのは明らかだ。このため森は先に引用した文章で、次のように言ったのだった。

問題は、フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になることである。そのとき「もの」は新しい生命を露わす。そこに新しい世界が啓示されはじめる。どんなに分量において僅かでも、この一点が破れればよいのである。あとは子供の様に学ぶだけである。それは翻訳とか解釈とかからはもっとも遠い世界である。そんなことは、「もの」の真の姿を覆い隠すだけである。そういうものには一文の価値もない。

 要するに、森は日本に帰って、フランス語を離人症患者のように読み書きするのに耐えられなかった。このため「フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になる」までフランスにとどまろうとしたのである。
 しかし、森のこの計画は失敗する。フランス語は森にとっていつまでも「他者」にすぎなかった。これも「ドストエフスキーと最初の暴力──外国語の他者性と催眠術としての物語」で引用した森の言葉だが、再度引用しておこう。

「正直に申しますと、ぜんぜん筋を知らない新しい劇を、そのテキストを知らずに観に行きますと、半分分かったらいいほうなのです。今でもです。一七年間フランスにいて、フランス人と毎日しゃべり、手紙を書いたり、学校の講義を聞いたり、新聞を読んだり、一応フランス人と同じようにその中で生活していてです。半分分かれば非常にいいほうで、場合によれば三分の一しか分かりません。(中略)ところでこれもご参考までに申し上げますが、新しく(フランスに:萩原)来た若い方は、ひと月ぐらいでほとんど全部分かるようになる、というのです。ところがこれは非常に問題で、私が初めて来たときに分かったと思った状態と同じところにその方々がおられるので、だんだんそういう方々には芝居が分からなくなってくるということが起こるのだと思います。私はそういう状態がずっと続いております。」 (森有正、『光と闇 ― 森有正説教・講演集』、日本基督教団出版局、1977、p.102)

 ここで森がいう「新しく(フランスに:萩原)来た若い方は、ひと月ぐらいでほとんど全部分かるようになる」というのは、フランス語が「等質的」に分かるようになるということだ。森がいう「分かる」とは、そのように等質的に分かるということではなく、フランス語が「「もの」と等価値になる」、つまり実感として分かる、つまり「質的」に分かるということなのである。そのような意味で、森は「半分分かれば非常にいいほうで、場合によれば三分の一しか分かりません。」と言うのだ。従って、森は「フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になる」ためにフランスにとどまったのに、フランス語の半分以下しか「等価値」にならなかったのだ。
 ここで半分以下というのはもちろん、「質的」に分かるフランス語の数が半分以下だということではない。なぜなら、言語は有機的につながっているのだから、ある言葉が「質的」に分かり、べつの言葉が「質的」に分からないということはあり得ない。従って、ここは、分かり方が「質的」に半分以下、つまり、もうひとつ実感をともなわないということだろう。これは外国人としては大した進歩であるはずだが、それでもやはり実感としてはフランス語が半分以下しか分からないのである。
 この講演のあとしばらくして森はパリで亡くなる。従って、森に「フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になる」瞬間はついに訪れなかったと見るべきだろう。先に引用した森の1958年の言葉を再度引用してみよう。

問題は、フランス語の言葉が、僕にとって「もの」と等価値になることである。そのとき「もの」は新しい生命を露わす。そこに新しい世界が啓示されはじめる。どんなに分量において僅かでも、この一点が破れればよいのである。あとは子供の様に学ぶだけである。それは翻訳とか解釈とかからはもっとも遠い世界である。そんなことは、「もの」の真の姿を覆い隠すだけである。そういうものには一文の価値もない。

 繰り返すが、こう述べた森に、フランス語の言葉が「もの」と等価値になる瞬間が訪れることはなかった。森はソシュール言語学の正しさを一生を棒に振って証明しただけだ。ところが、この証明を無視してドストエフスキー論を展開しているのが、江川や亀山であり、そのようなドストエフスキー論に拍手を送っているのが埴谷雄高なのである。(続く)